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2020年04月19日20:09

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ジャンボ鶴田怪物伝説(582)

85年ジャパンプロレス自主興行シリーズ、「ビッグ・ラリアート・フェスティバル」第3戦は5月13日、大阪城ホール(観衆9,200人発表)大会。月曜日の平日ということもあってか満員マークはつかず。しかし、ノーテレビとあって、私は再び夜行バスにて大阪へ遠征してこの興行を生観戦しています。

前回の大阪城ホール大会が2月21日であり、いくら勢いのあるジャパンプロレスと言えど3か月に満たないスパンで大阪城ホールを満員にするのは至難の技でした。ただ、大阪府立体育会館が建て替え工事中であり、やむを得かった面はあります。

メインイベントはシリーズ天王山、ジャパンの総帥、長州力と不沈艦スタン・ハンセンの4年ぶりのシングルマッチ。

長州とハンセンはハンセンが新日本プロレスに2度目の参戦を果たした77年8月の「闘魂シリーズ」で初対戦。初顔合わせは8月31日、鈴鹿市体育館で長州は坂口征二と組んでハンセン&ロディ・パイパー組と対戦。(45分3本勝負)1本目は8分20秒、ハンセンが長州を体固め。2本目は4分6秒、ハンセンと長州が両者リングアウトとなり、2−1でハンセン&パイパー組の勝利。

初のシングルマッチは9月28日、市原市臨海体育館、(30分1本勝負)6分2秒、ハンセンが長州を体固めに降し、力の差を見せつけました。ハンセンはこのシリーズ、9月2日、愛知県体育館で猪木のNWFヘビー級王座初挑戦に抜擢され(25分13秒、バックドロップからの体固めで敗退)、翌78年はジョージア州でのスケジュールが一杯で来日出来なかったものの、79年4月の「第2回MSGシリーズ」でアンドレ・ザ・ジャイアントと互角の試合をして、以後は新日本プロレスのトップ外国人レスラーの座に昇り詰めました。

一方で長州はこの年3月にアメリカ、カナダ、ヨーロッパにおける海外修行から凱旋帰国したものの、猪木、坂口、ストロング小林に次ぐ4番手であり、翌78年にWWWFジュニア・ヘビー級王座のベルトを引っ提げて凱旋帰国した藤波辰巳の後塵を拝するようになっていきます。

79年6月15日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで坂口と組んでヒロ・マツダ&マサ齋藤組を破り北米タッグ王座を獲得、S小林を脱いて4番手に再浮上、同王座は一度も転落することなく13回の連続防衛を果たし81年4月23日、IWGP参加の為返上していますが、藤波とのMSGシリーズ、プレ日本選手権などのシングルマッチは全て負け。

81年5月17日、山形・寒河江市体育館での「第4回MSGシリーズ」公式戦で2分24秒にハンセンが体固めで勝利、最後のシングルマッチは同年「ブラディ・ファイト・シリーズ」第3戦の8月23日、熊本・阿蘇内牧大観宮特設リングでのセミファイナルでハンセンが1分44秒、体固めで勝っておりもはや長州はジョバーでした。おそらく長州はハンセンとはやる気も起きなかったことでしょう。 

それから4年、団体の長となった長州はハンセンを相手に自団体のリングで雪辱を晴らすことが出来るか、それともハンセンが全日本プロレスナンバーワン外国人の意地に賭けて返り討ちにするか?

試合は60分1本勝負。長州は序盤からハンセンのウエスタン・ラリアット封じとばかりグラウンドに引き込んで腕ひしぎ逆十字固めで攻勢にでました。ハンセンはこれを嫌い、外しにかかりますが長州は投げを打ってからの再び逆十字固め。

場外でハンセンがウエスタン・ラリアット、しかしこれは鉄柱に誤爆、そこへ長州が突進してリキラリアットにいきましたがこれはハンセンも読んでいて長州も鉄柱に誤爆、リングに戻ろうとした長州の腰を抱えたハンセンは場外でのバックドロップ。

両者後頭部を場外マットに強打してダウン。レフェリーのカウントが進み、17分7秒に両者リングアウトの引き分け。

長州は勝てませんでしたが、初対決から8年、ようやくハンセンに並びました。長州にとっては長年の鬱積した気持ちが晴れた試合だったかも知れません。

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