ワタシは原発爆発前後から、特に後から、あらゆる哲学思想家に原発と被曝を巡る明確な意見みたいな何かは出ないのかと思ったが、出会わなかった。あんまり文献を当たったことがないので単に知らないだけかも。
新型コロナ騒ぎのあとで何か生まれてくる気がする。
ところで、哲学とは何か、思想となにが違うの?って話をしていて、哲学って対話なんじゃん?っと言うんだけど、哲学をタイトルに掲げた某所のコメントの応酬を見ていると対話って何?となった。
バトラーの本特にジェンダートラブルを読んでると、一々批判って書いてあるから、批判のない哲学的対話はあるの?って聞いたら、ないんちゃう?って話だった。
つづく
つづき
アホなワタシが考えた所に辿り付く前に乗り換えだったんで、微コンティニューって感じだが、ふと思ったんだけどこれって関西風の古典漫才的会話にありがちな
A Bくん、××って△△やねぇ。
B ××って△△、言われてますねえ。
そやけど、ホンマは◆的な事もあるんちゃいますか?
みたいな、、批判って書くと言葉が強い気がするけど
漫才的会話だとアホな落ちつけて、知らんけど(笑)で終わる。漫才的会話は別に本質を追求したりしなくても良いと思うけど、形式としては同じでは?
ってちょっと思いました。
拒否じゃないけど、どーなん?ってのが無いとアカンのちゃうかなと。
あと、哲学では、やたら哲学の偉い人とか有名ななにかが引用されるじゃないですか。アレがワタシは若い頃はそんな奴知るかボケ自分頭良いと思ってカッコつけてんのかと鬱陶しかったんですが正直。
哲学することを遊戯王に例えると、概念を使う時って言うのは、何かカード召喚して来てる感じか。
いや、まあ、もう死んでこの世に居ない哲学者の言う事とか出さずとも哲学はできるみたいですから、それが全てでは無いと思うけど。
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