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2020年03月20日08:16

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キリシタン紀行 森本季子ー73 聖母の騎士社刊

私の奄美紀行ー37

 「現在ハ氏病の患者が最も恵まれないで苦しい生活をしている所は地球で何処だろうか。またハ氏病の研究が最も旺んに行われ研究が進んでいる国はどこだろうかと自分でいろいろ調べてみた。彼が思いついたところは日本であった。日本は敗戦によりどん底の生活をしている。そんな時に生産力のないハ氏病患者はきっと世に疎まれているに違いない。ところが日本にはハ氏病の世界的な学者が多い。ハ氏病の研究は世界のどこよりも進んでいる。自分がハ氏病を学ぶのは日本以外にない。」(前掲誌、松原若安)
 こう結論した彼は上司に日本派遣を願い出た。最初の上陸地沖縄で、パトリック神父はハ氏病療養所愛楽園に赴いた。が、ここは米国庇護下で患者たちの生活はまだ恵まれた方だった。
 そこで、大島に和光園のあることを知り来島した。昭和26年初め頃だったらしい。
 彼が目撃したのは予想以上の悲惨であった。
 「和光園の周囲に鉄条網を張りめぐらし警官派出所をおいて患者の脱出を視させる等の政策に入園者達の心は荒れに荒れていた。320名余の患者が狭苦しい寮にぎっしり詰めこまれ、プライバシーも何もあったものではない。十二畳の一室に六組の夫婦が同居している、というよりは押し込められている状態は人権も何もなかった。食料事情の劣悪さは言うに及ばないが、医薬品資材の欠乏は療養所の機能を封じていた。現在の和光園から誰がこの状態を想像出来よう。余りにも憐れな和光園の姿であった。」(前掲誌 松原若安)

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