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2020年03月15日00:07

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3月15日の日記

今日の出来事:紀元前44年−シーザー暗殺、1275年−二月騒動、1351年−南北朝動乱:観応の擾乱(打出浜の戦い)、1527年−桂川原の戦い、1868年−戊辰戦争:神保修理切腹、1895年−京都で平安遷都1100年を記念して平安神宮を創建、1914年−秋田仙北地震、1943年−第二次世界大戦:第三次ハリコフ攻防戦、1990年−ゴルバチョフがソビエト連邦初代大統領に就任

今日は、シーザー暗殺です。古代ローマの英雄・帝政ローマの事実上の創始者、太陽暦の一つ「ユリウス暦」を制定したジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル、カイザーとも言う)が腹心ブルータスらに暗殺された日です。紀元前44年3月15日、元老院へ出席するシ−ザーの随行者はデキムスでした。妻・カルプルニアは前夜に悪夢を見た為、シーザーに元老院への出席を避けるよう伝え、一度は見合わせる事を検討しましたが、デキムスの忠告によって出席する事にしました。以前、「3月15日に注意せよ」と予言した腸卜官(占い師)のスプリンナに元老院への道中で出会いました。シーザーは「何も無かったではないか」と語りましたが、スプリンナは「3月15日は未だ終わっていない」と返答しました。それ以前に、シーザーは身体の不可侵性を保障される護民官職権を得ていましたが、元老院議員から安全に関する誓約を取った上で、独裁官に付属する護衛隊を解散していました。シーザーは「身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」、「私は自分が信じる道に従って行動している。だから他人がそう生きることも当然と思っている」と言いました。ポンペイウス劇場で開かれた元老院会議は、パルティア遠征を前にシーザー不在中のローマの統治体制を協議する予定でした。終身独裁官であったシーザーに随行するリクトルは、元老院の慣習により元老院外で待機し、腹心のマルクス・アントニウスはガイウス・トレボニウスによって引き離されていました。事件は元老院の開会前に起こりました。ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊(現在のトッレ・アルジェンティーナ広場内)でマルクス・ブルータスやカッシウスらよってシーザーは暗殺されました。23の刺し傷の内、2つ目の刺し傷が致命傷となりました。暗殺された際にシーザーが最後に発した言葉が、有名なあのセリフ「ブルータス、お前もか」です。

次に、二月騒動です。二月騒動は、1272年3月に「蒙古襲来」の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛です。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄・北条時輔が討伐されました。1268年正月、高麗の使節が大宰府を来訪し、蒙古(元)への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られました。3月、「蒙古襲来」の危機を前にして鎌倉幕府の権力一元化を図るため、北条氏嫡流である得宗家の北条時宗が18歳で8代執権に就任しました。北条時宗の庶兄・北条時輔は、1264年に時宗が14歳で連署に就任した際、京の六波羅探題南方へ出向していました。南方の上位である北方は、得宗支援者の北条時茂でしたが、1270年に死去すると後任がなく、六波羅探題は北条時輔の影響が強くなっていました。一方、名越氏は北条一門でも九州に多くの守護職を持ち、嫡流の得宗家に次ぐ勢力がありました。北条時宗の父で5代執権・北条時頼の時代に、長兄の名越光時らが「宮騒動」で処罰されました。弟の名越時章・教時は連座を逃れましたが、教時は前将軍・宗尊親王の側近で、依然として反得宗の傾向がありました。北条時宗の執権就任から4年後の1272年3月7日、鎌倉で騒動がありました。3月11日、名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱、大蔵次郎左衛門尉、薩摩左衛門三郎、渋谷新左衛門尉、石河神次左衛門尉ら御内人によって誅殺され、前将軍・宗尊親王の側近であった中御門実隆が召し禁じられました。4日後の3月15日、京で前年12月に六波羅探題北方に就任していた北条義宗が、鎌倉からの早馬を受け、南方の北条時輔を討伐しました。多くの人々が戦闘で死ぬか、事件に連座しました。北条時輔は誅殺され、六波羅探題にあった安達泰盛の庶兄・安達頼景が所領を没収、渋川義春と世良田頼氏は佐渡へ流罪、前将軍・宗尊親王は出家しました。その後、名越時章に異心はなかったとされ、討手である御内人5人は責任を問われて斬首されました。名越時章の子・公時は所領を安堵されました。誤殺された名越時章が持っていた九州の筑後・大隅・肥後の守護職は、安達泰盛・大友頼泰に移りました。九州で御家人の指揮を執り、鎌倉での影響力も強かった名越家が排除された事により、北条時宗による九州異国警固態勢が強化される結果となりました。また京では、北条時輔と前将軍・宗尊親王ら反得宗の動きを封殺し、反抗勢力を一掃した事で、得宗独裁体制が強化されました。

その次に、南北朝動乱:観応の擾乱(打出浜の戦い)です。室町幕府内で足利尊氏の執事・高師直と、弟・足利直義の対立が深刻化しました。一旦は高師直派が有利となり、足利直義は出家して実権を失いました。足利直義派の上杉重能と畠山直宗は、配流先で高師直の配下に暗殺されました。1350年、足利尊氏は九州で兵を挙げた直義の養子・足利直冬を討つため、高師直らを伴って出陣しました。その頃、京都を脱出した足利直義は南朝に降伏し、高師直追討のための兵を挙げました。1351年、足利直義派は京都に攻め込み、留守を預かる足利義詮を破りました。足利尊氏は備後から兵を帰し、足利直義勢と戦いとなりました。戦に慣れた足利尊氏・高師直は、足利直義勢を難なく打ち破れると考えていましたが、高師直に反感を持つ多くの武将が直義に従ったため苦戦に陥りました。足利尊氏は播磨に兵を引き、高師泰らの軍勢と合流して再起を図りました。その間に、足利尊氏勢の中から足利直義勢に寝返る武将が現れ始めました。3月15日、足利尊氏勢は足利直義勢と摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で決戦しましたが、敗北しました。足利尊氏は高師直・師泰兄弟の出家を条件に、足利直義と和睦しました。3月24日、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた足利直義派の上杉能憲(高師直に殺害された上杉重能の養子)の軍勢により、摂津の武庫川(兵庫県伊丹市)で高師直の子・師夏、高師泰の子・師世ら一族とともに謀殺されました。こうして、足利直義派は高兄弟の排除に成功し、主導権を奪回しました。足利直義は足利義詮の補佐として政務に復帰、九州の足利直冬は九州探題に任じられました。足利尊氏派・足利直義派は、一旦は和睦しましたが対立は収まらず、両者は再び戦いを始める事となります。滅亡寸前にまで追い込まれていた南朝でしたが、足利直義の降伏をきっかけに、以後も北朝方武将の降伏が続いたため南北朝の動乱が長引く事になりました。

その次の次に、桂川原の戦いです。管領・細川高国の家臣・香西元盛は、細川尹賢の讒訴によって自害させられました。細川尹賢は、香西元盛が細川晴元や三好元長に対して内通を約しているという偽造文書を作り上げて讒訴し、それを細川高国が信じてしまいました。細川高国は、以前にも讒訴を信じて家臣を自害させていました。香西元盛の2人の兄・波多野稙通と柳本賢治は、十分な調べを行わずに自害させられた事を知り、丹波・八上城と神尾山城で反旗を翻しました。1526年、細川高国は神尾山城に総大将・細川尹賢軍を、八上城に瓦林修理亮、池田弾正を差し向けて城を包囲しました。その後、波多野稙通に同情した丹波守護代・内藤国貞が、神尾山城の包囲軍から離脱しました。その後、黒井城主・赤井五郎が3000の兵を率いて神尾寺城包囲軍の背後から襲い掛かり、赤井軍にも損害がでましたが包囲軍を打ち破りました。この敗報を知った八上城の包囲軍は、囲みを解いて退却しました。この退却の途中、阿波守護・細川晴元と通じていた池田弾正は、瓦林修理亮らに一斉に矢を射かけたため、細川尹賢軍は散々な態で京へ逃散しました。波多野稙通から知らせを受けた細川晴元は、三好勝長と三好政長に出陣を命じ、阿波より堺に上陸すると中嶋の堀城を占領しました。波多野稙通も丹波を出国し、野田城をわずか7日間で陥落させました。波多野稙通はそのまま京都に向かうと見せかけて一気に南下し、山崎城を陥れました。山崎城に詰めていた摂津守護代・薬師寺国長は高槻城に逃亡しました。その後、芥川城、太田城、茨木城、安威城、福井城、三宅城の諸城を次々と攻め落としたり、降伏させました。波多野軍と三好軍は山崎城で合流し、3月14日に桂川を挟んで細川高国軍と対峙しました。細川高国は諸大名に援軍を要請しましたが、要請に応じたのは若狭の武田元光のみでした。細川高国軍は、主力として鳥羽から鷺の森辺まで川沿いに隙間無く一文字に陣を敷きました。本陣は少し後方の六条に第12代将軍・足利義晴が、後詰として本陣から北側、桂川の川勝寺に武田元光が布陣しました。戦闘は3月14日の夜中、川を挟んだ矢の応酬から始まりました。翌3月15日、主力への攻撃を予想した細川高国軍に対して、三好軍は裏を付いて桂川を渡河して、後詰の武田元光軍に襲い掛かりました。激戦となりましたが、武田元光軍は死者80名を出して敗退しました。細川高国は自ら武田元光軍の救援に向かいましたが、親戚(父・政春の従兄弟)にあたる大納言・日野内光が討死し、精鋭の荒木父子も討死、300人以上を失うという大敗をして兵を退きました。波多野・三好連合軍も三好勝長が瀕死の重傷を負って80名の死者が出ましたが、勝利しました。細川高国は、足利義晴を奉じて坂本に逃げ去りました。この逃亡により、京都の幕府は崩壊する事になります。波多野・三好連合軍は京都に進軍し、支配します。この後、細川晴元が足利義晴の弟・足利義維を奉じて堺に上陸し、「堺公方」として擁立します。

そのまた次に、戊辰戦争:神保修理切腹です。神保修理は、幕末会津藩の軍事奉行添役です。会津藩家老・神保内蔵助の長男、諱は長輝、北原雅長は弟、妻は会津藩士・井上丘隅の次女、雪子です。神保家は藩内の名門の一つで、家禄は1000石でした。幼少の頃より学問に秀で、藩校「日新館」で勉学に励んでいた時代は、周囲から秀才と謳われました。会津藩主・松平容保が京都守護職を拝命すると、側近くで容保に随行して国事に奔走しました。藩内の実力者・野村左兵衛の仲介で、軍学者である会津藩700石・井上丘隅の次女・雪子と婚礼を結びました。松平容保は、神保修理を長崎に派遣し、藩兵組織と教練方法を西洋化しようとしました。その改革によって教練を受けて生まれたのが、「白虎隊」です。1867年、「大政奉還」により、神保修理は長崎から大坂へ帰還しました。「王政復古」によって事態の収拾が不能となると、神保修理は「主戦論」に対し「不戦恭順論」を将軍・徳川慶喜に進言し、江戸で善後策を練る事を強く説きました。これにより、会津藩の主戦派急先鋒・佐川官兵衛らと激しく対立しました。しかし結局、1868年1月に「鳥羽・伏見の戦い」が勃発しました。神保修理は軍事奉行添役として、会津藩の軍権を持って出陣しました。しかし、旧幕府軍は兵力で圧倒しながら戦況が思わしくない事に加え、旗色をうかがっていた鳥取藩などの寝返りによって不利な状況に転じました。そして、倒幕軍側に「錦の御旗」が翻り、朝敵となる事を恐れた神保修理は徳川慶喜と松平容保に恭順を進言しました。しかし、徳川慶喜以下、松平容保までが神保修理を残して大坂城を抜け出し、江戸へ脱出した事で戦意を喪失した幕府軍は崩壊し、新政府軍に勝利をもたらす結果となりました。総大将が前代未聞の戦線離脱をした原因は、神保修理が将軍に恭順を進言した事にあると、会津藩内で意見が上がりました。ついに全藩からも「鳥羽・伏見の戦い」の敗戦を招いた張本人とされて、和田倉上屋敷に幽閉されました。会津内部では、神保修理の処罰を松平容保に迫りました。神保修理の窮地を救おうと親交のあった幕臣・勝海舟は、身柄を幕府に引き渡すように徳川慶喜を通じて画策しましたが、これが裏目に出て抗戦派の怒りを買いました。神保修理を処断すべしと動いた有志らの陰謀により、三田下屋敷に移送されました。神保修理は松平容保との謁見も許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられました。神保修理は「是に従うのが臣である」と潔く自刃しました。この後、妻・雪子は「会津戦争」で薙刀を手に「娘子隊」に参加し、壮絶な自決を遂げる事になります。

そのまた次の次に、平安神宮を創建です。平安神宮は、京都府京都市左京区にある神社です。平安遷都1100年を記念して、平安神宮が創建されました。祭神は平安遷都を行った第50代天皇・桓武天皇で、後に京都最後の天皇である第121代天王・孝明天皇が加えられました。創建を記念して、「平安京遷都の日」である10月22日に「時代祭」が行われています。

さらに次に、秋田仙北地震です。秋田仙北地震は、1914年3月15日午前4時59分44秒、秋田県仙北郡大沢郷村(現・大仙市、旧・西仙北町)を震源として発生しました。東北地方を中心に、北は北海道函館付近、南は関東地方までを揺らしました。被害は死者94名、負傷者324名、家屋被害は全壊640戸、半壊575戸、焼失3戸でした。その中で仙北郡の被害は突出しており、死者86名、負傷者278名、全壊580戸、半壊483戸、焼失3戸で、被害の大半を占めました。さらに、雄物川に架かる木造の橋梁も崩壊しました。

最後に、第二次世界大戦:第三次ハリコフ攻防戦です。第三次ハリコフ攻防戦は、1943年1月〜3月まで、ハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍と赤軍との戦闘です。マンシュタインのバックハンドブロウ(後手からの一撃)の異名を取り、機動防御戦の教科書として戦史上極めて重要な戦闘の一つに数えられています。「スターリングラード攻防戦」でソ連の勝利が確定し、1943年2月2日にドイツB軍集団の第6軍がスターリングラードで壊滅しました。この期にソ連軍は全戦線で攻勢に出ました。北部では、デミャンスク東方に形成されていたドイツ軍突出部・中部にあたるスモレンスク東方のドイツ軍に攻撃を加え、3月中に奪還しました。南部では、1942年12月に「リトル・サターン作戦」を行い、ヴォロネジ正面軍・南西正面軍がドン川を越えてドネツ川まで前進していました。1月29日、南西正面軍がドニエプル川まで進出し、ドン軍集団・A軍集団との連絡を遮断し、クリミアへ追い詰める「早駆け作戦」、2月2日にヴォロネジ正面軍が弱体化したドイツB軍集団に攻勢をかけ、ハリコフの奪還を狙う「星作戦」が発動されました。ヴォロネジ正面軍は第3戦車軍を、南西正面軍は第6軍と臨時に編成されたポポフ機動集団を先方として、それぞれの目標へ進撃しました。2月6日、ドン軍集団のマンシュタインがアドルフ・ヒトラーと会談し、ドン川下流の湾曲部に沿う「バルコニー」突出部のミウス川以東からの撤退許可を取り付けました。2月9日にはソ連軍はクルスク=ベルゴロド=ハリコフ北部のラインまで前進しました。13日ヒトラーはハリコフの死守を命じましたが、15日にSS装甲師団がハリコフから撤退し、16日にソ連がハリコフを奪還しました。19日の時点で、南西正面軍はドニエプル川の目前まで前進していました。ドイツ軍はB軍集団を解消するなど組織的な再編を完了させると、マンシュタインは反撃の準備を進めました。一方、ソ連軍は急進撃による補給不足が深刻化していましたが、ドイツ軍戦線は崩壊状態にあると状況を誤認し、さらなる進撃をしました。2月19日にヒトラーが、ドニエプル川河畔のサポロジュの南方軍集団司令部を訪問し、マンシュタインに即時のハリコフ奪還と戦線の死守を要求しました。マンシュタインは、ドニエプルと南方軍集団の背後に侵入しつつある、ソ連軍の先鋒の撃破を優先するよう説得しました。そこへ、サポロジュ近郊のポルタワにソ連軍が出現したという報が飛び込みました。そのお陰で、ヒトラーはサポロジュから避退する事になり、マンシュタインの計画も認められました。こうして、マンシュタインは反撃を命じました。まず、第4装甲軍がドニエプル川へと伸び切ったソ連軍西側面に、続いて第1装甲軍も南方から攻撃を開始しました。南西正面軍は、ポポフ機動集団と第6軍が壊滅的な打撃を受けた事により、総崩れとなりました。この反撃により、ドイツ軍は3月始めにはドネツ川=ミウス川の線までソ連軍を押し戻しました。3月7日、第4装甲軍がハリコフへ前進を開始しました。ソ連軍は西方へ進撃していた第3戦車軍を呼び戻し、ハリコフの防衛に当たらせましたが、15日にはハリコフを奪還され、ヴォロネジ方面軍は包囲の危機に晒され壊走しました。ドイツ軍はビエルゴロドも回復しました。こうして、スターリングラードの包囲以降続いていたドイツ軍南翼の危機は回避され、ソ連軍南翼が崩壊状態に追い込まれました。次にクルスクへ攻勢をかけるべきでしたが、春の泥濘期に入った事、冬期戦の目処がついた事によって、部隊の休養を宣言した事により、双方の軍事行動は一旦中止されました。こうして、史上最大の戦車戦「クルスクの戦い」となります。

今日の誕生日:アンドリュー・ジャクソン(第7代アメリカ大統領)、高橋泥舟、原敬(第19代内閣総理大臣)、長谷川伸、関根潤三、平岩弓枝、正司照枝(かしまし娘・次女)、井上堯之(元ザ・スパイダース)、マイク・ラヴ(ザ・ビーチ・ボーイズ)、森次晃嗣、横峯良郎、肥後克広(ダチョウ倶楽部)、武内直子、カヒミ・カリィ、武豊、純名里沙、山本"KID"徳郁、小林尊、楽しんご、とにかく明るい安村(元アームストロング)、中村ゆり(元YURIMARI)、喜矢武豊(ゴールデンボンバー)、森川加奈子(元美少女クラブ31)、北乃きい、岡田ロビン翔子(元チャオ ベッラ チンクエッティ)、有安杏果(元ももいろクローバーZ)、黒島結菜、キーストン、ノーザンテースト、マツリダゴッホ

今日の記念日:世界消費者権利デー、靴の記念日、万国博デー、サイコの日、『会いに、走れ。』記念日、眉の日、ドメインの日

今日の「今日訓」:本日は、ケネディ米大統領が「消費者には権利がある」との一般教書を発表した事で「世界消費者権利デー」、1870年3月15日に西村勝三が築地に日本初の西洋靴の工場「伊勢勝造靴場」を開設した事で「靴の記念日」、1970年に日本万国博覧会(大阪万博)の一般入場が開始された事で「万国博デー」、1985年にドメインネーム「symbolics.Com」が正式なDNS管理手順に沿って、世界で初めて登録されたドメインとなった事で「ドメインの日」、卒業や就職など別れと旅立ちと出会いのある3月中旬に、大切な人を思い出し、走って会いに行く決意を促そうと「『会いに、走れ。』記念日」、「サスペンスの神」と言われたヒッチコック監督の最大のヒット作「サイコ」を讃えて「サ(3)イ(1)コ(5)」の語呂合わせで「サイコの日」、「最高(315)の眉」の語呂合わせで「眉の日」となりました。
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