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2020年02月06日10:52

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鬼はどこへ行った?

自分が今住んでいるあたりでは、正月に凧も揚がらないし、独楽も回らない。羽子板の音もしない。自分が小さいころはそうでなかったから、この三、四十年の変化である。田舎ではまだやっとるのかもしれんが、正月の子どもの遊びは大きく変わったらしい。

そういう自分も、もう子どもの時分には、スカイカイトというビニール製の凧をどこかで買ってきて揚げていた。足がついてない凧だから「タコ」という語の意味が不明になっていた。

そんなことを考えていたら、二月の節分はさらに寂しくなっておる。「鬼は外」なんて声はどこからも聞こえてこない。煎り豆業界だけでは節分を宣伝する力に欠けるのか、今日では恵方巻なんてものを食うことになっとる。こちらはコンビニでもデパートでも宣伝しておるが、この恵方巻を食うというのは自分には新しい習慣で、関西では知らんが、自分の子どもの時にはなかった。そのかわり、まだ玄関にひいらぎなどを飾っておった。さすがにイワシの頭までは刺さなかったが、厄除けである。古い魔術の名残である。

新聞を見ると、豆をまくのは食品ロスだからやりにくいみたいなことが書いてあったが、自分の記憶では撒いた豆はそのあと拾って食ったから、ロスではなかった。売れ残りの恵方巻の方がよっぽど大きなロスである。たとえ儀式でも、落ちてる物を拾って食うということを子どもに許すことができなくなったのかもしれない。

そもそもうまいものが増えて、大豆の煎り豆など喜ぶ子どもが減ったのかもしれない。祭りの食物は特別であったから、昔から大人も子どもも楽しみにしていた。田舎では正月だけじゃなくて、年の「節」目には臼と杵を出してきて、餅をついて配ったらしい。そういう「節」が月に一度くらいはあったのである。今では年がら年中ハレの日の食物が食えるし、酒も飲める。だから、恵方巻なんていう珍しい名前の食い物を持ち出さないと商機にならなくなったのかもしれん。

そもそも祭りが食物飲物に還元されてしまうようになったのも新しい。もともと食い気は重要であったが、それは同じ食物を神さまも人も共有するという儀式に組み込まれていて、おそらく生命の流れという信仰と深く結びついていた。みんなが同じものを食うというのが大事だったのである。

大人がこの信仰を忘れてゆくにつれ、子どもがそれに代わってマツリの主役になった。マツリは子どものために行なわれるようになった。そうしていくうちに、子どもの数が減り、またもっと楽しい遊びが増えると、子どもが大人のお古にそっぽを向く。そうなれば、もうマツリなどする人がいなくなる。

一人で暮らす人が増えたのも、またマツリにとっては不幸なことであったかもしれない。マツリの一つの主要な意味は「共同」であり、一人でマツリをする人はよほど信仰の深い人だけである。独り暮らしの寂しい人にとって、マツリ時はむしろ社会が怨めしくなる。「クリぼっち」なんていう語が出てくるわけである。

そうして日本の伝統は潰えつつあるのだが、代わりにクリスマスとかバレンタインデーとかハロウィーンとか洋風のマツリの方がにぎやかになっている。それも新しければ新しいほど若い人が集まって人気があるようだ。国粋派には面白くない話で、余計に「クリスマス粉砕」とか「バレンタインデー粉砕」を叫びたくもなる。

だが、わが国におけるクリスマスとかバレンタインデーとかハロウィーンの過ごし方は、自分が海外で経験したのとはちがう。やはり土着化されていて、日本的になってる。自分が知るかぎり、海外ではバレンタインデーにチョコレートをあげる習慣はない。「義理チョコ」なんていうのはもはや愛とは何の関係もないわけで、お中元やお歳暮のような日本的風習に近い。

クリスマスも家族と過ごす時期であり、ハロウィーンの主役は子どもたちである。もちろん、家族から片足ぬけた若者や子どものいない大人も便乗して楽しむので、そこの部分だけが輸入されたらしい。じゃあ、まったく伝統と無縁な軽薄な「お祭り騒ぎ」なのかというと、そうとも言い切れない。いつぞやも書いたが、われわれの親々もマツリのときに勝負服を羽織って、酒と歌踊りと夜闇の助力を得てパートナーを口説こうとしてきた。外見だけ見て日本の伝統の喪失を嘆く国粋派が何か重要なものを見失ってる。

機織る娘と踊る日本人 https://note.com/telemachus/n/neab17bd57fec


長いこと続いてきた伝統が失われるのは残念かもしれないが、伝統が廃れるにはそれなりの理由がある。いたずらに大騒ぎして塩漬けの伝統文化保存に奔走するまでもないのかもしれない。第一、その「伝統」の多くは実はそれほど古くない。多くは江戸中期以降のもので、しかも当時はただの「流行」や「堕落」とされたようなものが維新後に「美しい日本の伝統」にされたものがほとんどである。

だが、なぜそんな伝統があって、なぜそれが廃れることになっているか、その代わりに何か別のものが生まれているのか、ということを考えてみると、個人の狭い経験を越えてわれわれの社会がどちらの方向に動いているか理解する手掛かりが得られる。国粋派ならずとも、この絶好の機会を見逃す理由はない。

今の自称「保守」は、こんな大変動にはとんと鈍感で、むしろ伝統の喪失に手を貸しながら、夫婦同姓などという伝統とも呼べるかどうか怪しいものを政治権力を使って維持しようとしている。どんな文化であろうとも、そんな人たちに任せておいて健全に育つわけがない。むしろ未来の方を向いた若い人にこの修練を積ませたいのである。
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