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2020年01月26日02:49

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1月26日の日記

今日の出来事:1836年−仙石騒動、1886年−北海道庁を設置、1949年−法隆寺金堂で火災、国宝の壁画を焼損(文化財防火デー)、1958年−南海丸遭難事故、167人全員死亡

今日は、仙石騒動です。仙石騒動は、江戸時代後期の出石藩で発生した騒動で、「三大お家騒動」の一つです。出石藩の第6代藩主・仙石政美の時、藩の財政が逼迫して藩政改革の機運が盛り上がりました。仙石氏一門の筆頭家老・仙石左京は、重商主義的産業振興策と人件費削減策を掲げました。しかし、一門の勝手方頭取家老・仙石造酒は、質素倹約令の励行という保守的な政策と大量に発行された藩札を回収する事を主張したため、対立しました。藩主・仙石政美は仙石左京の政策を支持し、強い権限を与えて藩政改革を行わせました。仙石左京は藩士の俸禄の一部を強制的に借り上げたり、藩営の物産会所を設置して御用商人以外を締め出す代わりに、徴収している運上金の金額を大幅に値上げするなどの改革を推進しました。しかし、成果が上がらず、藩士や領外の商人、多額の運上金を課せられた御用商人から反発が出ました。このため、仙石政美は仙石左京の政策を一時停止させ、失脚していた仙石造酒を復権させて藩政を執らせました。しかし、その直後の1824年、藩主・仙石政美が参勤交代で出府する途中で発病し、江戸に着いて間もなく28歳の若さで病没しました。仙石政美には嗣子が無く、隠居していた父・久道が江戸で後嗣を選定するため、分家の旗本を含めて会議を開きました。仙石左京は子・小太郎を同伴させて江戸へ出ました。仙石左京は小太郎を後継に推すのではと不信感を抱いた仙石造酒は、実弟・酒匂清兵衛を同道させて監視しました。会議は仙石造酒派の主導で進み、仙石久道の十二男で仙石政美の弟・道之助を元服させて、久利として藩主にする事で決定しました。こうして、藩政の実権を仙石造酒派が完全に掌握し、仙石左京の政策は全て廃止されました。しかし、仙石造酒が側近・桜井良蔵を重用した事から、同じ仙石造酒派の家老・磯野源太左衛門と激しく対立して乱闘騒ぎまで起こしました。この事件の責任を問われ、磯野源太左衛門、仙石造酒、酒匂清兵衛は隠居を余儀なくされました。再び筆頭家老として人事権を握った仙石左京は、藩重役は仙石造酒の息子・主計以外は左京派に替えました。仙石造酒の政策である藩札の切り替えによって流通量を半減させる政策が失敗し、上方商人からの借り入れが不可能になると、その責任を問われて仙石主計も失脚しました。仙石左京は再び改革を始めました。江戸詰めの仙石造酒派の重臣・荒木玄蕃の不正が発覚した事から免職し、藩政の最高権力者となりました。1831年、仙石左京は息子・小太郎の嫁に幕府筆頭老中・松平康任の姪を迎えました。これに対して、仙石主計、酒匂清兵衛、荒木玄蕃、原市郎右衛門ら仙石造酒派の重臣は、仙石左京が小太郎を藩主に据えようとしていると先々代藩主・久道に直訴しました。しかし、全く相手にされずに4人は仙石久道の怒りを買って蟄居を命じられました。この行動の首謀者・河野瀬兵衛は藩を追放されました。1833年、河野瀬兵衛は江戸に上って一門の旗本・仙石弥三郎に上書を提出して訴えました。この上書は仙石久道の夫人・常真院に渡りました。仙石左京の政策で、江戸屋敷の経費も大幅に節減されて耐乏生活を送っていた夫人は、上書の内容をそのまま信じて仙石久道に仙石左京の非を激しく訴えました。仙石左京は重臣を江戸に上らせて、夫人に弁明しました。藩内に潜伏していた河野瀬兵衛は、天領・生野銀山に逃げましたが捕縛されました。天領での捕縛には幕府の勘定奉行の許諾が必要で、無断捕縛は違法でした。しかし、仙石左京は老中・松平康任に揉み消してもらいました。そして、河野瀬兵衛に加担して仙石弥三郎に引き合わせた家臣・神谷転の捕縛を老中・松平康任の伝で南町奉行に実行させました。身の危険を感じた神谷転は虚無僧になって江戸に潜伏しましたが、南町奉行所に捕縛されました。この事態に、神谷転が帰依所属していた普化宗一月寺が僧は寺社奉行の管轄に属し、町奉行に捕縛権限は無いので違法であり、即時釈放する事を寺社奉行所に訴えました。また、仙石久道夫人は実家である姫路藩邸に赴き、藩主・酒井忠学の妻で将軍・徳川家斉の娘・喜代姫にも藩の騒動を話していました。寺社奉行の脇坂安董は、松平康任に対抗して権力掌握を狙っていた老中・水野忠邦に、出石藩の騒動と松平康任の関係を報告しました。松平康任を失脚させるため、水野忠邦と脇坂安董は仙石左京が仙石家の乗っ取りを策謀しているとして将軍・徳川家斉に言上しました。喜代姫から出石藩の騒動を耳にしていた徳川家斉は、この騒動を寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行で構成される評定所が裁定し、その責任者を脇坂安董とする事に決めました。実際の調査取調べは寺社奉行吟味物調役・川路弥吉(後の川路聖謨)が行いました。1835年に裁定が下されて仙石左京は獄門となり、鈴ヶ森に晒首されました。仙石左京の側近・宇野甚助は斬罪、子・小太郎は八丈島へ流罪になり、仙石左京派は壊滅的打撃を受けました。藩主・仙石久利には直接お咎めはありませんでしたが、出石藩は5万8千石から3万石に減封となりました。また、幕府内では老中・松平康任が同時に発覚した密貿易「竹島事件」の責も含めて失脚し、隠居を余儀なくされました。南町奉行・筒井政憲と勘定奉行・曾我助弼も失脚しました。出石藩はその後も抗争が残り、1862年に藩主・仙石久利が実権を握って親政を開始するまで、藩内の政争が続きました。仙石小太郎は、八丈島に向かうために立ち寄った三宅島で発病して死亡しました。仙石左京の娘は、白湯文字と呼ばれる私娼になりました。松平康任が隠居した後、子・康爵が跡を継ぎましたが、石見・浜田から陸奥・棚倉に懲罰転封されました。南町奉行を解任された筒井政憲は、左遷されましたが後に復権して、川路聖謨と共に対ロシア外交の責任者となりました。松平康任を失脚させた水野忠邦は、老中首座となって「天保の改革」を推し進めました。脇坂安董は、寺社奉行から老中に就任しました。

次に、北海道庁を設置です。「廃藩置県」に伴い、館藩の旧領(爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡)に「館県」を設置しました。同時に分領支配が終わり、「館県」以外の地域はすべて開拓使の直轄となりました。その後、「館県」は道外の「弘前県」と合併し、「弘前県(青森県)」の一部となり消滅しました。1872年、福島郡など四郡(旧館県)が「青森県」から開拓使に移管されました。これにより、北海道全域が開拓使の所管となりました。1874年には開拓と北辺の守りを固めるため、「屯田兵」の駐屯が開始されました。開拓使は設置から13年後の1882年に廃止されました。開拓使を置き換えるように北海道全体として初の近代行政区画・近代行政機関である「函館県」、「札幌県」、「根室県」の3県が設けられました。しかし、当時は人口が少なく非常に偏った分布で3県体制が機能しない事から、1886年には道内全域を管轄する「北海道庁」が置かれました。そして、明治政府の政策により多くの人が全国各地から移住し、道内各地に開拓の波が押し寄せました。特に東北地方と北陸地方からの移住者が全体の7割近くを占め、言語や習慣などの「北海道文化」の礎となりました。これにともない、鉄道や国道が建設されました。これは「網走刑務所」に代表されるように、懲役刑の一環として行われました。石炭が産出される事から、数多くの炭鉱が開発され、輸送するための鉄道が縦横に張り巡らされました。これらの「開拓」は先住民のアイヌ人にとっては、土地収奪と強制移住を伴うもので、「日本による侵略」でした。

その次に、法隆寺金堂で火災、国宝の壁画を焼損(文化財防火デー)です。1949年1月26日早朝、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺の金堂で火災が発生し、堂内の壁画の大半が焼損しました。壁画は長年、自然災害や兵火にも遭わず「飛鳥時代」の芸術を伝えてきたものでした。その焼損は日本国民に強い衝撃を与えただけでなく、当時のロンドン・タイムズの東京支局長フランク・ホーレーも「法隆寺は外国人にとっても非常に興味を持たれている・・・法隆寺が焼けてしまったと聞いたらどんなに悲しむことか・・・日本人はこうした“貴重なもの”の取扱いが全く下手でデタラメだ」と語りました。そればかりでなく、同年2月には愛媛県の松山城の筒井門等3棟が、6月には北海道の松前城の天守等2棟が焼失しました。半年の間に3件の国宝が火災に遭ったのでした。これらの事件によって日本国民の間でも、火災などの災害から文化財を保護する必要性について議論が高まり、1950年に「文化財保護法」が制定されました。1955年、文化財保護行政が確立されると、日本国民への普及啓発事業が行われるようになりました。その一環として、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が、文化財を火災・震災・その他の災害から守るとともに、日本国民の文化財愛護思想の高揚を図るため、1月26日を「文化財防火デー」と定めました。この日が選ばれたのは、法隆寺金堂が焼損した日である事、1年のうちで最も火災が発生しやすい時期である事からです。以来、毎年この日を中心に、文化庁、消防庁、教育委員会、文化財所有者等が連携して、日本各地で防火訓練などの文化財防火運動が行われています。また、国庫補助による国宝建造物等への火災報知機やスプリンクラー設備などの設置も進められました。1950年の「文化財保護法」施行以降に指定された日本の国宝建造物には、火災で焼失した物はありません。2004年の第50回「文化財防火デー」の際には、記念事業として文化財防火・保護に携わってきた54団体に「文化財防火功労賞」が贈呈されました。

最後に、南海丸遭難事故です。1958年1月26日の17時頃、徳島地方気象台は強風注意報を出しましたが、紀阿連絡航路の南海汽船(後の南海フェリー)所属の旅客船「南海丸」は、17時30分頃に和歌山市に向けて、徳島県小松島市(現在の徳島小松島港)から出航しました。18時28分頃に、無線電話で危険を知らせる連絡を最期に消息を絶ちました。当時、「南海丸」がいた紀伊水道の沼島付近は平均風速17〜20メートル、平均波高4〜5メートルの悪天候でしたが、直ちに僚船や海上保安庁の巡視船らによる救助体制がとられました。翌々日の28日16時頃に紀伊水道沼島の南西2.4海里の水深約40メートルに、沈没している船体が発見されました。その後、船体は引き上げられましたが、旅客139名乗組員28名の167人全員が死亡または行方不明となる大惨事となりました。海難審判よると、この遭難について船体および機関に沈没原因になるような欠陥は無く、発生原因が明らかでないとされました。生存者がいなかったため事故の詳細は明らかに出来ませんでしたが、台風並みに発達した低気圧による影響で沈没したのではないかと言われています。

今日の誕生日:後奈良天皇(第105代天皇)、ダグラス・マッカーサー、マーク・ミッチャー、甘粕正彦、ポール・ニューマン、児島襄、馬飼野康二、小川知子、所ジョージ、エドワード・ヴァン・ヘイレン(ヴァン・ヘイレン)、山下久美子、アニマル・ウォリアー(ザ・ロード・ウォリアーズ)、アンドリュー・リッジリー(元ワム!)、長嶋一茂、福永恵規(元おニャン子クラブ)、宮崎萬純、今井恵理(元シェイプUPガールズ)、新條まゆ、hitomi、来栖あつこ、小柳ゆき、村上信五(関ジャニ∞)、綾野剛、バービー(フォーリンラブ)、岡村真美子、ジェジュン(JYJ、元東方神起)、春香クリスティーン、モンチッチ

今日の記念日:文化財防火デー、有料駐車場の日、コラーゲンの日、携帯アプリの日、1ドア2ロックの日、モンチッチの日

今日の「今日訓」:本日は、1949年1月26日に法隆寺金堂壁画が焼損した事をきっかけに、文化財を火災や震災から守るとともに文化財愛護思想の普及高揚を図る目的で、文化財保護委員会(現・文化庁)と国家消防本部(現・消防庁)が制定した「文化財防火デー」、1959年に東京都が公共駐車場として日本初の「パーキングメーター」を日比谷と丸の内に設置した事で「有料駐車場の日」、1960年に西原富雄がコラーゲンの可溶化に成功して特許を出願した事で「コラーゲンの日 」、1974年の「モンチッチ」の誕生日である事から「モンチッチの日」、2001年にNTTドコモが携帯アプリケーションを開始した事から多彩なゲームやツールが登場し、日本の携帯電話が世界をリードするきっかけになった事で「携帯アプリの日」、「1つのドアに2つのカギ(ロック=6)」の語呂合わせで「1ドア2ロックの日」となりました。
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