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2020年01月03日18:39

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南方熊楠と 神社合祀令 5

神社合祀の悪結果 第8(前編)

滝尻王子
引作神社 / み熊野ねっと
 第八
 合祀は天然風景と天然記念物を亡滅する。


 このことはまた史蹟天然物保存会が中心となって主張するところなので、小生の蛇足を待たない。しかし、かの会より神社合祀に関して公けに反対説が出たのを聞かないのが遺憾なので、少々言うが、西牟婁郡大内川(おおうちがわ)の神社はことごとく日置川(ひきかわ)という大河の向いの大字へ合わされ、少々水が出れば参詣も途絶する。その民は、神を拝むことができないことからヤケになり、天理教に化する者が多く、大字内の神林をことごとく伐ろうと願い出た。すでに神社がないので神林があっても何になろうかとの心の中はもっともなところもあるのだ。

このような例はまた少なからず、大いに風景を損ずることだ。定家卿であったか俊成であったか忘れたが、和歌はわが国の曼陀羅(まんだら)であると言ったとか。小生が思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅であろう。前にもいったごとく、至道は言語筆舌の必ず説き勧めさとし理解させて得るものではない。その人に善心がなければ、いかに多く物事を知り理窟を明らかにしたとして何の益があろう。

だから上智の人は特別として、凡人には、景色でも眺めて彼処(かしこ)が気に入った、此処(ここ)が面白いという処から案じ入って、人に言い得ず、みずからも理解しきらない間に、何となく至道をぼんやりと感じることができ(真如)、しばらくなりとも半日一日なりとも邪念を払うことができ、すでに善を思わず、ましてやどうして悪を思うだろうかの域にあらしめること、学校教育などが及びようもない大教育であろう。

このような境涯に毎々到ることができるならば、その人は三十一字を綴ることができなくとも、その趣きは歌人である。日夜悪念が去らず、妄執に繋縛(けいばく)される者の企てが及ぶことができない、いわゆる言わずして名教中の楽土に安心し得る者である。無用のことのようで、風景ほど実に人世に有用なるものは少なしと知るべきだ。ただし、小生はこのようなことを思う存分書き表わすことができず、その辺は察せられんことを望む。

 またわが国の神林には、その地固有の天然林を千年数百年来残存したものが多い。これに加えるに、その地に珍しき諸植物は毎度毎度神に献ずるとして植え加えられたので、珍草木を存することが多く、偉大な老樹や土地に特有の珍生物は必ず多く神林神池に存するのだ。三重県阿田和(あたわ)の村社、引作(ひきつくり)神社に、周囲二丈(1丈は約3m)の大杉、また全国一という目通り周囲四丈三尺すなわち直径一丈三尺余の大樟がある。これを伐って三千円とかで売ろうとして合祀を迫り、わずか五十余戸の村民はこれを嘆き、規定の神殿を建て、またさらに二千余円を積み立てしてもなお脅迫が止まない。合祀を肯(がえ)んぜなければ刑罰を加えるとの言で、止むを得ず合祀請願書に調印したのは去年末のことという。

金銭の外を知らないと嘲けられる米国人すら、カリフォルニアの巨柏(ビグトリー)などは抜群の注意をして保存している。二十二年ばかり前、予が訪れたニューゼルシー州の一所に、フサシダの一種である小草を特産する草原などは、兵卒が守りっていた。英国やドイツには、寺院の柏の古木、水松(いちのき)の老木をことごとく謄記して保護を励行しているのに、わが邦には伐木の励行とは驚くの外ない。だから例のエセ神職らが枯槁していない木を枯損木として伐採を請願することが絶えない。

 むかしは熊野の梛(なぎ)は全国に聞こえ渡った名木で、その葉をどんなに強く引いても切れず、夫(おっと)に離れないお守りに日本中の婦女が便宜してその葉を求め鏡の裏に保存し、また武士の金打(きんちょう:江戸時代、約束をたがえぬという誓いに、刀の刃や鍔を互いに打ち合わせてその証としたこと)同様に女人はこの梛の葉を引いて誓言した。定家卿が後鳥羽上皇に随い熊野に詣ったときの歌にも、「千早振る熊野の宮のなぎの葉を変はらぬ千代の例(ため)しにぞ折る」とある。

それなのに濫伐や移栽のために三山に今は全滅し、ようやく那智社境内に小さきものが一本ある。いろいろ穿鑿せしに、西牟婁郡の鳥巣(とりのす)という浦の社地小丘林中におびただしく自生している。これも合祀されたから、早晩全滅であろう。すなわち熊野の名物が絶えおわるのだ。オガタマノキは、神道に古く因縁深い木であるが、九州に自生している箇所があるというが、その他に大木あるのは紀州の社地だけである。合祀のため著しく減じた。ツグノキ、バクチノキなどは半熱帯地の木で、田辺付近の神林にだけ多かったが、合祀のため今わずかに一、二株を存す。熊野の名産ナンカクラン、ガンゼキランその他希珍の托生蘭類も多く合祀で絶える。ワンジュ、キシュウスゲなど世界有数の珍しいものも、合祀で全滅しようとするのをわずかに有志の注意で止めている。タニワタリ、カラタチバナ、マツバランなど多様の園芸植物の原産も合祀で多く絶えようとしている。

神社合祀の悪結果 第8(後編)


algae / isado

 熊楠は帰朝後十二年紀州におり、ずいぶん少なからぬ私財を投じ、主として顕微鏡的の微細植物を集めたが、合祀のため現品が年々滅絶して生きたまま研究を続けることができない。空しく図画と解説の不十分なものだけが残存している。ウォルフィアというのは顕花植物の最微なものであるが、台湾で洋人が採ったと聞くだけである。

和歌浦辺の弁天の小祠の手水鉢より少々予が見つけてから後見ることがない。ウォフィオシチウムという微細の藻は多種あるが、いずれも拳螺旋状(さざいのまきかた)をなす。西牟婁郡湊村の神楽神社(かぐらのやしろ)の辺りの小溜水から得たのは、従来聞いたことのない珍種で、蝸牛(かたつむり)のごとく平面に螺旋する。

このような微細生物も、手水鉢や神池の石質土質に従っていろいろと珍品奇種が多いが、合祀のために一たび失われてもう見ることができなくなる例が多い。紀州だけでこのような生物絶滅が行なわれているかと言うとそうではない。伊勢で始めて見つけたホンゴウソウという奇草は、合祀で亡びようとするのを村長の好意でようやく保留している。イセデンダという珍品の羊歯(しだ)は、発見地が合祀で畑にされ全滅してしまった。スジヒトツバという羊歯は、本州には伊勢の外宮にだけに残り、熊野で予が発見したのは合祀で全滅した。

 日本の誇りとすべき特異貴重の諸生物を滅し、また本島、九州、四国、琉球等の地理地質の沿革を研究するに大必要なる天然産植物の分布を攪乱雑糅(ざつじゅう)し、また秩序なくさせているものは、主として神社の合祀である。本多静六博士は備前摂播地方で学術上天然植物帯を考察すべき所は神社だけだといわれている。和歌山県もまた平地の天然産生物分布と生態を研究することができるのは神林だけである。その神林を全滅されて、有田、日高二郡ごときは、すでに研究の地を失ってしまった。

本州に紀州のみが半熱帯の生物を多く産することは、大いに査察を要する必要事である。それなのに何の惜しげなくこれを滅尽するのは、科学を重んずる外国に対して恥ずべきことの至りである。あるいは天然物は神社と別だ、相当に別方法をもって保存すべきだというのか。それは金銭あり余っている米国などで初めて行なわれるべきことで、実は前述のように欧米人いずれも、わが邦が手軽く神社によって何の費用なしに従来珍草奇木異様の諸生物を保存して来たことを羨むものである。

 近ごろ英国でも、友人バサー博士らが、人民をその土地に落ち着かさせようとするならば、その土地の事歴と天産物に通暁させることを要するとして、野外博物館(フィールドミュゼウム)を諸地方に設けるという企てがあると聞く。この人は明治二十七年ころ日本に来ていて、わが国の神池神林が非常に天産物の保存に有益であることを称揚していたので、名は大層ながら野外博物館とは実は本邦の神林神池の二の舞であろう。

外人が懸命に真似しようと励んでいる元のものを、こちらでは分別なく滅却しさって悔やまないとするのは、そもそも何のつもりか。総じて神社のなくなった社跡は、人民はこれを何とも思わず、侵掠して憚るところがない。例をあげると、田辺の海浜へ去年松苗を二千株植えたが今はすっかり絶えた。その前年、新庄村の小学校地へ桃と桑を一千株を紀念のため栽えたのも、一ヶ月の内にことごとく抜き去られた。だから欧米でも、林地には必ず小さな礼拝堂や十字架を立てるのだ。

至極の秘密の儀法

 このように神社合祀は、第一に敬神思想を薄くし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却する。

 当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方では愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称する。どうして下痢を停めようとして氷を食らうのと異なるだろうか。このように神社を乱合し、神職を増し置き増給して神道を張り国民を感化しようということだが、神職の多くは国民を感化できるような人ではない。おおむね我利我慾の徒であるのは、上にしばしばいったとおりである。国民の教化に何の効があるだろうか。

一方、心底から民心を感化させることができるのは、決して言筆ばかりではない。支那に祭祀礼楽と言い、欧州では美術、音楽、公園、博物館、はなはだしきは裸体の画像すら自由に見させて、遠廻しながらひたすらわずかの時間でも民の邪念を払い鬱憤を発散させることに汲々としている。いずれも人心慰安、思慮清浄を求めるのに不言不筆の感化力に 待たないわけにはいかないを知悉しているからである。

わが国の神社、神林、池泉は、人民の心を清澄にし、国恩のありがたと、日本人は終始日本人として楽しんで世界に立つべき由来があるのを、どのような無学無筆の輩にまでも円悟徹底させるすばらしい至極の秘密の儀法ではなかろうか。それだけでなく、人民を融和せしめ、社交を助け、勝景を保存し、史蹟を重んぜしめ、天然紀念物を保護する等、無類無数の大功がある。

 それを支那の王安石のような偏見で、西湖を埋めるには別にその土泥を容れることができる大湖を穿たないわけにはいかないのに気づかず、利獲のみを念じ過ぎて神林を失うと、これが田地に大きな虫害を招致する原因であることを思わず、非義(道理に外れた)饕餮(とうてつ)の神職から口先ばかりの陳腐な説教を無理に聞かせて、その聴衆がこれを聞かないうちから、すでに神職輩の非義我慾に感染するであろうことを想わないのは無念至極である。

この神職輩の年に一度という講習大会の様子を見るに、(1)素盞嗚尊(すさのおのみこと)と月読尊(つきよみのみこと)とは同神か異神か、(2)高天の原はどちらのほうにあるのか、(3)持統天皇、春過ぎての歌の真意はどうかなど、呆れ返ったことを問いに県の役人が来るが、よい加減な返事を一、二人の先達がするのを、十余人が黙して聞いているのだ。米の安くない世に、これはまあ無用の人のために冗職を設けたことだと驚き入るばかりである。このような人物は、当分史蹟天然物保存会の番人として神社を守らせて、追い追いそれにふさわしい人を選び、その俸給を増やすことが願われる。

世に喧伝する平田内相は報徳宗にかぶれ、神社を滅するのは無税地を有税地とする近道であるとして、もっとも合祀を励行されたという。どうして知らないのか、その報徳宗の元祖二宮氏は、田をむやみに多く開くよりは、少々の田を念を入れて耕せ、と説いたのではなかったか。たとえ田畑を開け国庫に収入が増えたとしても、国民が元気を失い、我利に努め、はなはだしきは千百年来の由緒があり、いずれも皇室に縁故ある諸神を祀っている神社を破壊、公売するのだから、見習って不届き至極の破壊主義を思いつくようでは、国家にとって何という不祥事か。

神社合祀中止を求む



 近ごろ英国の高名の勢力家で、しばしば日本学会でわが公使、大使に対し聖上のおんために乾盃を上げる役を勧めている名士よりの来状にこうあった。

「むかし外夷種がローマ帝国を支配するに及び、政略上からキリスト教に改宗してローマ在来の宗教が偶像を祭るのは罪深いといってこれを厳禁したのは、人民に親切でも何でもなく、実は古教の堂塔に蔵している無数の財宝を奪って官庫に満たすため。よって古教が亡びてまもなくローマ帝国の民は元気沮喪し四分八裂して亡滅してしまった。

露国もまたペートル帝以来不断西欧の文化を輸入し、宗教興隆と称して百姓ども仕来りの古儀旧式を撲滅しようとしたが、百姓にも五分の魂、なかなか承知せず、今も古儀旧法を墨守する者はなはだ多く、何でもない宗儀作法の乖背(※かいはい:そむき反すること※)から、民の心が帝室を離れ、皇帝を魔王(サタン)と呼ぶようになり、これが近世しばしば起こる百姓乱や虚無党や自殺倶楽部の有力な遠因となった。

盛邦が近年神道を興すといって瑣末な柏手(かしわで)の打ち様や歩き振りを神職養成と称して教えこみ、実は所得税を多く取るために神職を増加し、その俸給を増やさせて、売れ行きの悪い公債証書を売りつけるために無理早速に神社基本金を積まさせる算段と思われる。財政が乱れているのは救う日もあるだろう。国民の気質が崩れては収拾することができなくなる。私は貴国のために深くこれを惜しむ」と。

岡目八目(おかめはちもく)で言いたいままの放語と思うけれど、久しく本邦に在留した英人が、木戸、後藤諸氏草創の難に思い比べて、禁じようとして禁じ得えない激語と見えた。とにかく、かかる評判が外国著名の人より発せられるのは、近来日本公債が外国市場で非常に下落しているのに参照してはなはだ面白くない。

 正直の頭(こうべ)に宿るという神を奉祀する神職と、何の深い念慮もない月給取りが、あるいは脅迫あるいは甘言で用いて強制的に人民に請願書に調印させて、さて政府に向かっては人民は合祀を好んで請願するといい、人民に向かっては政府の厳命である、違反すれば入獄させるといって二重に詐偽を行ないながら、褒美に預かり模範吏と推称されるるのは、民を導くのに詐(いつわ)ることをもってするもので、詐りより生ずることは必ず堂々と真面目一直線に行ない遂げないものである。

すでに和歌山県ごときは、一方に合祀励行中の社があるのと同時に、他の一方では復社を許可されることもある。この村には一年百円を費やさなければ古社も保存を許されないのに、かの村では一年二十円内外を払って、しかも月次幣帛料を受ける社が二、三並び存置されることもあり。今では前後雑糅、県庁も処分に持て余しているのだ。このようなことなので到底合祀の好結果は短日月に見ることはできない、そのうちに人心離散、神道衰頽、罪悪増長、鬱憤発昂、何とも名状できない状態に至るであろうことを杞憂する。

 結局、神社合祀は、内では、人民を堕落させ、外では、他国人の指嘲を招く原因であるので、このことがいまだ全国に普及しない今日、きっぱりとその中止を命じ、合祀励行で止むを得ず合祀した諸社の跡地で完全に残存するものは、事情審査の上人民の懇望あればこれの復旧を許可し、今後新たに神社を建てようとするものがあれば、容易に許可せず、十二分の注意を加えることとし、さてまことに神道興隆を謀られるには、今日自身の給料のために多年奉祀し、衣食してきた神社の撲滅を謳歌欣喜するような弱志反覆の俗神職らに一任せず、漸をもってその人を選び、任じ、永久の年月を寛仮し規定して、急がず、しかも怠たらせず、五千円なり一万円なり、十万、二十万円なり、その地その民に、応分に塵より積んで山ほどの基本財産を積ませ、徐々に神職の俸給を増し、一社たりとも古社を多く存立させ、口先で愛国心を唱えるを止めて、アウギュスト・コムトが望んだように、神職が世間一切の相談役という大任に当たり、国福を増進し、聖化を賛翼し奉ることに尽力するよう御示導あることを為政当局に望むのである。

 右は請願書のようだけれど、小生はこのような長たらしい請願書など出すつもりはない。何とぞ愛国篤志の人士が一人でもこれを読んでその要点を摘み、効果のあるよう演説されることを望む。「約は博より来たる」というゆえ、心中存するところ一切余さず書き綴るものである。

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