mixiユーザー(id:21258650)

2019年12月31日22:55

345 view

猪木とビンス(634)最終章

89年12月31日には猪木は旧ソビエト連邦共和国・モスクワ・ルージニーキ・スタジアムに登場、異種格闘技戦を闘ったショータ・チョチョシビリとタッグを組み、マサ齋藤&ブラッド・レイガンズ組を破りました。

90年2月10日、2度目の東京ドーム大会、予定していたリック・フレアーvsグレート・ムタのNWA世界ヘビー級選手権試合が流れ、坂口社長は馬場に選手の派遣を要請、馬場は「お前の社長就任祝いだよ」と鶴田、天龍、スタン・ハンセン、谷津嘉章、タイガーマスクを派遣。当時の東西ドイツ融合になぞらえ、「プロレス界のベルリンの壁は壊れた」と名台詞を残しました。

ドーム大会は63,900人の大観衆を集め、メインイベントの猪木&坂口組vs橋本真也&蝶野正洋組の試合は猪木が蝶野を体固めに降しました。試合後の「1、2、3ダァーッ!」が初めて見られたのがこの大会です。

ハンセンがビッグバン・ベイダーのIWGPヘビー級王座に挑戦した試合は15分47秒に両者リングアウト。長州力&ジョージ高野組vs天龍&タイガーマスク組は18分59秒、天龍&タイガーマスク組のリングアウト勝ち。鶴田&谷津組は木村健悟&木戸修組と対戦し、11分6秒、鶴田が木戸を空中胴絞め落としからの体固めでフォール。M齋藤はラリー・ズビスコを14分40秒、首固めで破り鶴田に次ぐ日本人選手2人目のAWA世界ヘビー級王者となりました。

3月15日、久留米市福岡県立体育館で坂口が社長業に専念する為引退試合を行い、木村健と組んでスコット・ホール&コーポラル・マイク・カーシュナー組に勝利。東京では3月23日に後楽園ホールでM齋藤と組み木村健&木戸組とエキシビションマッチで10分時間切れとなっています。

4月13日、東京ドームでWWF、全日本プロレス、新日本プロレス共催による「日米レスリング・サミット」が開催されましたが、WWFが日本側の交渉の窓口として選んだのはかつてのビジネスパートナーの新日本プロレスではなく、全日本プロレスの馬場でした。WWFのコーディネーターに前年まで全日本プロレス所属だった佐藤昭雄がいたというのもありますが、新日本プロレスは馬場に坂口が声をかけられただけでした。

ハルク・ホーガンが5年ぶりに日本のリングに登場、ハンセンと対戦して勝った他、馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントが夢のタッグを結成、アックス&スマッシュのザ・デモリッションを撃破、○天龍vsランディ・サベージ、○鶴田&キング・ハク組vsカート・へニング&リック・マーテル等全日本勢はWWFのスーパースター達と対戦しましたが、新日本プロレス勢は「自分達のスタイルは崩したくない」と同門対決を提供試合として行ったに過ぎませんでした。

M齋藤&橋本組は長州&蝶野組を破りIWGPタッグ王座を防衛、獣神サンダー・ライガーは野上彰を降しました。

4月26日、全日本プロレスの天龍が退団を発表、新設されたメガネスーパーが母体の新団体SWSヘ移籍。SWSへは全日本プロレスから大量の選手が移籍しましたが、新日本プロレスからもG高野、佐野直喜、前年3月に新日本を退団したドン荒川が移籍。

9月30日、横浜アリーナで猪木デビュー30周年記念大会が行われ、猪木はかつての宿敵で全日本プロレスから戻ってきたタイガー・ジェット・シンとの初タッグを結成しベイダー&アニマル浜口組を撃破しています。

12月に中東戦争の影響でイラクに人質となった日本人の為に猪木が立ち上がりました。バグダッドで「平和の祭典」なるプロレス大会を開催。自身は試合には出ませんでしたが、このイベントが契機となり日本人人質は開放されました。「闘魂外交」が身を結んだ訳であります。

90年暮れには新日本プロレスとWCWが正式に業務提携を結びました。ビンスの全米制圧はNWAを崩壊に追い込み、最後まで抵抗していたノースカロライナのジム・クロケットもついに資金がつき、88年12月、クロケットプロの株式をケーブルテレビ王と言われた米国版TBS(ターナー・ブロードキャスティングシステム)のオーナー、テッド・ターナーに売却、NWAの後継団体としてWCWが発足しています。

WCWはジム・ハード社長が来日して契約を締結。同社副社長エリック・ビショフと渉外担当取締役となったM齋藤はAWA時代からの繋がりがあり、正式に契約にこぎ着けたものでした。

91年は持病の痛風の悪化で1試合もせず。東京都知事選に出馬を表明していましたが、取りやめ。

92年は新日本プロレスの創立20周年記念イヤー、1月4日の東京ドームで猪木は馳浩を卍固めで撃破。3月1日、横浜アリーナでは旗揚げメンバーである木戸と組んで長州&木村健組と対戦しましたが敗退。5月17日、大阪城ホールでは馳とのタッグでムッシュ・ランボー&レイガンズ組を撃破。

11月23日、両国国技館に姿を現した猪木は、全日本プロレスを退団、SWSを経てWARのエースとなった天龍と長州戦(翌93年1月4日、東京ドーム、試合は天龍がパワーボムで勝った)の勝者に挑戦すると宣言、ただしリングに上がって試合をするには2か月間のコンディション調整の時間が必要としています。

93年5月3日、初開催となる福岡ドーム(現ヤフオクドーム)大会に出場、藤波と組んで長州&天龍組と対戦、藤波が長州をグラウンド・コブラツイストで3カウントを奪取。猪木はギブアップ奪えなかったものの天龍に卍固めを決めてみせました。

この年、猪木は週刊誌に秘書だった佐藤久美子、スポーツ平和党幹事長であった新間寿に政務調査費の私的流用と脱税疑惑を追及されしばらく表舞台から姿を消すことになります。(不起訴となる)

94年1月4日、東京ドームで猪木は天龍とシングルで初対決。魔性のスリーパーホールドで一旦は絞め落とすも蘇生した天龍のパワーボムの前に15分56秒、フォール負け。これで天龍は89年11月29日、札幌中島体育センターでの世界最強タッグ決定リーグ戦公式戦、&スタン・ハンセン組vs馬場&ラッシャー木村組で馬場からパワーボムで3カウントを奪ったのに次いで猪木からもフォール勝ちを収め「メインイベンターになってからのBIからフォールを奪った唯一の日本人レスラー」として歴史にその名を刻むことに。

2月24日、日本武道館のリングに上がった猪木は「シングルカウントダウン」を行うことを発表しました。

3月16日、東京体育館では猪木はデビューしたばかりの元大相撲、小結の孝乃富士の安田忠夫とタッグを組み、蝶野&木戸組と対戦。スリーパーをチョークと取られて反則負け。4月4日、広島グリーンアリーナでは馳と組んで藤原組の藤原喜明、石川雄規組に勝利。

猪木シングルカウントダウン第1戦は5月1日の福岡ドームでのグレート・ムタ戦、ムタ独特の間合いに苦戦、終盤にはムタのジャーマン、ドラゴン・スープレックスホールドを食らうもカウント2でクリアし、スリーパーホールドで絞め落としての体固めでフォール勝ち。

シングルカウントダウン第2戦は9月23日、横浜アリーナで、かつて「格闘技世界一決定戦」で何度も対戦したウィリエム・ルスカと対戦、ルスカのスリーパーに一度は絞め落とされかけながらも逆にチョークスリーパーで逆転勝ち。

95年1月4日の東京ドームでは格闘技トーナメントとしてシングルカウントダウン第3戦が行われ、1回戦でジェラルド・ゴルドーをスリーパーで撃破。同じく1回戦でトニー・パルモラを降したスティングと決勝を争い、苦戦しながらもスリーパーホールドでスティングを絞め落としてみせました。この試合から、政治家としてのスキャンダルから放送自粛されていた猪木の試合がテレビ朝日で放送再開されています。

3月19日、愛知県体育館でのシングルカウントダウン第4戦は愛弟子藤原との対戦、ダウンしたした状態での藤原にナックルパンチを見舞っての体固め。

4月28、29日には北朝鮮で「平和の祭典」を開催、平壌のメーデースタジアムには1日当たり19万人、2日間で38万人の観客を動員。猪木は2日目のみ出場、フレアーとの初シングルマッチを行いました。

達人同士の対戦は初対決とは思えないスイングした名勝負となり猪木が延髄斬りからのフォール勝ち。この平和の祭典にはモハメド・アリもゲストとして参加しています。

北朝鮮から帰国後の5月3日、福岡ドーム大会で猪木&北尾光司組vs長州&天龍組が実現、猪木が魔性のスリーパーから長州を体固め。腕力が落ちてきた分、スリーパーホールドは「絞めるポイント」が重要で、猪木はレスラー生活の晩年、スリーパーをフィニッシュに多用します。

8月24日、アイオワ州シーダーラビッツのWCWの大会に猪木が出場、猪木がハワイ諸島以外の米本土で試合をするのは85年12月、テキサス州ダラスでのスティーブ・ウイリアムス戦以来10年ぶり。ロード・スティーブン・リーガルをスリーパーホールドで降しています。

年末の12月30日、大阪城ホールで猪木は新日本プロレスの開催でない自主興行、「突然卍固め」に出場、高田と組んで藤原&山崎一夫組と対戦。2ー1で勝ちましたが山崎から1本フォールを奪われています。

96年1月4日、東京ドームでは約10か月ぶりのシングルカウントダウン第5戦、vsビッグバン・ベイダー戦を行い、ベイダーの投げっぱなしジャーマンに強烈なダメージを受けましたが逆腕固めで大逆転勝ち。

6月1日、ロサンゼルス・スポーツアリーナで「平和の祭典」第2弾が行われ、猪木はダン・スバーンと組んで藤原&オレッグ・タクタロフ組を撃破。

12月1日には国立代々木競技場第二体育館で自主興行第2弾を開催。CS放送で日本初のプロレス・格闘技専門チャンネル「ファイティングTVサムライ」の開局記念イベントでした。猪木は8年ぶりに出現した海賊男ザ・ガスパーに勝利を収めています。

97年1月4日、東京ドームでのシングルカウントダウン第6戦はかつて80年2月27日、蔵前国技館で格闘技世界一決定戦で壮絶な痛み分けとなった元極真空手の「熊殺し」ウィリー・ウイリアムスと「極め技限定マッチ」で対戦しグラウンドコブラツイストでウィリーからの初白星をげました。

3月7日、バルセロナ五輪柔道金メダリストの小川直也がプロ格闘家に転向、指導は猪木、初代タイガーマスクが当たりました。4月12日、東京ドームでは猪木は初代タイガーマスクことタイガーキングとシングルカウントダウン第7戦を行い、コブラツイストでギブアップ勝ちを収めました。この試合がシングルカウントダウン最終戦となった訳です。

7月6日、札幌・真駒内アリスアリーナ(真駒内セキスイハイムアイスアリーナ)では猪木はタイガーキングとのタッグで佐々木健介&藤田和之組と対戦し勝利。ジャパンプロレスでデビューしている健介とは初対戦でした。

97年12月26日の東京スポーツに「猪木、来年(98年)引退」の記事が掲載され、98年1月4日、東京ドームで紋付き袴姿でリングに登場した猪木は4月4日、東京ドームで引退試合を行うことを発表しました。
3 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年12月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    

最近の日記