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2019年12月13日23:10

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米国 日本にさらに12の原爆を投下する予定だった

■投下目標にされた都市

1945年4月 原爆投下を研究する地域を次のとおり選定。
        東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、
        下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保

5月 投下目標を京都、広島、新潟にしぼる。
6月 投下目標地から京都を除き、小倉、広島、新潟を目標に設定。
7月 広島、小倉、新潟、長崎に投下命令。(26日)
    広島を最優先目標に決定。     (31日)
8月 目標から新潟を除外。(1日)
    攻撃日を6日、投下目標を広島、小倉、長崎とする最終命令。(2日)
    広島に原爆投下   (6日)
    長崎に原爆投下   (9日)

日本本土の上陸作戦、暗号名はオリンピック作戦と名付けられ、
11月の作戦に向けての被害状況を算出していた。

米軍戦死者4万人と算定、43年5月にアメリカ側は太平洋上のトラック島に
集結中の日本艦隊を目標とされていた。

日本に対する目標決定は、万が一回収されても、日本側は技術的な開発能力はなく、
また報復攻撃の心配は全くないと判断。

選考の基準は、軍需基地があり、住宅があり爆発の威力が十分発揮し、
その成果が観測可能であること、対比可能な条件である為、被害の今までにない都市、
であること、広島は捕虜収容所がないため第一目標に選ばれた。

74年前の1945年8月6日、米国は広島に原爆を投下し、7万人以上を即死させた。
3日後には2発目の原爆を長崎に投下、4万人以上を殺害した。

今に至るまで、戦争で原爆を使った国は米国のみ。この核戦争は第2次世界大戦の終結につながり、世界史上最悪の章が終わった。

原爆が投下された1945年、広島市の人口は30万〜42万人だった。

広島への原爆投下は当時のハリー・トルーマン米大統領が承認し、
米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が1945年8月6日、
「リトルボーイ」のコード名で呼ばれた原爆を落とした。

■米国が原爆を落とした理由

マンハッタン計画に参加した米国の研究チームは、ナチス・ドイツが降伏した後の
1945年7月に原爆実験を成功させていた。

トルーマン大統領は、ヘンリー・スティムソン陸軍長官が議長を務める諮問委員会に、
日本に対して原爆を使うべきかどうか判断するよう指示していた。

「当時の委員会は、攻撃を支持する見解でほぼ一致していた。
スティムソン氏は断固として原爆を使用すべきという意見だった」。
米ミズーリ州にあるトルーマン大統領図書館の専門家、サム・ラシェイ氏はそう指摘する。

ハーバード大学で歴史学を教えるチャールズ・マイアー教授によると、
トルーマン大統領が違う決断を下すことも可能だったが、
「この兵器が使えるのに何故それ以上戦争を長引かせるのか、
米国の一般国民を納得させることは難しかった」

原爆は「多大な苦痛を免れられる魔法のような解決策になるかもしれないと見なされた」
(マイアー氏)

マイアー氏によると、この時の日本は無条件降伏には応じない構えで、
原爆の威力を見せつけるだけでは不十分だとの懸念があった。
ラシェイ氏によれば、科学者やジョン・マックロイ陸軍次官補は、
無人地帯で原爆を爆発させ、それを見せつけることによって
日本を降伏に追い込む作戦を支持していたという。

だがトルーマン大統領や軍の顧問は、日本への侵攻に伴う犠牲を恐れていた。

「硫黄島や沖縄の戦闘では、日本の空軍と海軍を壊滅させたにもかかわらず、
米国と日本の犠牲者という意味であまりにも代償が大きかった」とラシェイ氏は語る。
「米軍の作戦本部では、日本は最後の1人になるまで戦うだろうという確信が浸透していた」

マイアー氏は言う。
「自爆攻撃は現代では珍しくなくなった。だが米軍指導部は
当時の日本のカミカゼ自爆攻撃で精神的に強い衝撃を受け、
(日本は)国家総動員で祖国を守ろうとするだろうと判断した」
「米軍は、原爆なしでこの戦争に勝てると断言することを躊躇した」

歴史学者の間では、ソ連が参戦する可能性があったことも、
戦争の早期終結を図る目的で原爆投下の決断を促す一因になったという説もある。

原爆の投下目標については4つの候補地があり、トルーマン大統領が軍に決定を委ねた。
広島が選ばれたのは、軍事上の重要性が理由だった。

原爆の爆発によって少なくとも7万人が殺害され、さらに7万人が被爆のために死亡した。
「がんなどの長期的影響のため、5年間で合計20万人、
あるいはそれ以上の死者が出た可能性がある」。
エネルギー省はマンハッタン計画に関するサイトの中でそう記している。

昭和20年8月9日午前2時49分(日本時間)、
「ファット・マン」と通称された原爆を抱いたB-29「ボックスカー」は、テニアン島を離陸した。
今度は投下の第一目標が小倉、第二目標は「山が多い」との理由で
反対意見が多かった長崎である。
同機は午前9時50分に小倉上空に至った。

ところが、小倉は雲に覆われていた。
隣の八幡市の、前日の空襲による煙が立ち込めていたともいう。
そのため45分間、小倉上空を旋回することになる。
使用可能な燃料は限界ぎりぎりで、ついに小倉をあきらめて、第二目標の長崎へと向かった。

長崎も雲の海だった。だが、雲の切れ間を見つけて午前11時2分、
人類史上2発目となる原爆が、投下される。

戦後、原爆投下の第一目標であったことが知らされるや、長崎が
小倉の身代わりになったのではと、心を痛める小倉市民も多かった。
こうして小倉の市民と市議会は、原水爆禁止運動の先頭に立つ。

昭和31年、小倉で全国市議会議長会が開催された際、原水爆実験禁止と
核保有国への抗議が決議された。
(新藤東洋男『明治・大正・昭和の郷土史40福岡県』昭和五十六年)

造兵廠があった勝山公園(北九州市小倉北区城内)には昭和48年、
「平和祈念碑」が建てられた。
傍らには長崎市から贈られた「長崎の鐘」が安置されており、
毎年8月9日には市民による慰霊祭が行われている。
また、小倉出身の住職が長崎で被爆したため、
不輕寺(北九州市小倉北区赤坂)には関係者の慰霊碑が建っていたりする。

実は、米国は、広島と長崎に原爆を投下した後も、
日本への原爆攻撃をやめるつもりはなかった。
彼らは、3発目を投下するばかりでなく、さらに12もの原爆投下計画を持っていた。

1945年8月13日に行われた高位の軍事専門家らによる交渉をまとめた資料は、
より強力な3回目の攻撃のための原爆用材料が、マリアナ諸島にほぼ集められ、
8月19日に用いられる可能性があった事を裏付けている。
またさらなる12回の攻撃用に原爆製造の準備がなされ、
米国は、日本が降伏するまで、原爆攻撃を続ける計画だった。

米国の特別軍事委員会は、京都や横浜、小倉、新潟さらには東京も標的にしていた。
専門家らは、原爆攻撃の効果を詳しく研究したいと考えていたため、
まだ通常爆弾での攻撃により大きな被害を受けていない、諸都市を選んだ。
東京は、すでに空襲により著しい被害を被り、10万人もの人々が亡くなっていたが、
特別軍事委員会は、標的のリストから除外しなかった。

しかし10日午前2時過ぎ、昭和天皇は涙をのんでポツダム宣言受諾に賛する旨を述べ、
15日、終戦の詔勅が発せられた。
8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、降伏したため、原爆の中身などは、
爆弾完成のため米国本土からマリアナ諸島へ送られる準備ができていたにもかかわらず、
その生産は中止となった。




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