3年前に岩波文庫で夏目漱石の「漱石紀行文集」というオムニバスが出て、去年は三島由紀夫の「三島由紀夫紀行文集」が出た。そろそろ川端康成あたりの紀行文集が出ないかなと待っているわけなのだ。紀行文というのは、対象に対する作家の切り口がよく分かって面白い。切り口のバリエーションこそが見どころだ。
紀行文でも案外多いのは、誰がどうしてどうなった的な人間関係の話だが、よほどの技がないと(たとえば北杜夫のような)、その手の人と人とのごたごたは僕にはたいして面白くない。何を見て何を感じ何を考えたかの方が興味がある。とはいえ、何人かで旅行に行けば必ず誰かと誰かが何かを起こすわけで、その事件の方がよほど面白いということもあるのは確かかもしれない。
ところで、誰かと旅行に行ったとしても、それぞれ全く違ったものを見ているものだ。そしてその記憶も全く違ったものとなる。修学旅行に行ったとして、みんながみんな同じ記憶があるわけでもなく、それぞれの人のそれぞれ独自の記憶があるだけだ。修学旅行なんてどこに行ったか覚えてないが誰と何をしたかは覚えているなんて人も多いだろうし、逆に誰がいたのかぜんぜん覚えてないけどどこに行ったのかはよく覚えているという人もいるだろう。みんな自分の見たいものしか見ていない。というか、形式的には、みんな自分の見ているものしか見ていない。
当たり前の話だが、ひとりの人の主観というのは、ひとつの宇宙のようなものだ。同じ景色を100人が同時に見たとして、そこには100通りのバージョンの景色がある。自分の見ている世界(宇宙)は自分だけが見ている世界であって、誰もが自分だけのバージョンの世界しか見ることが出来ない。要するに、人の数だけ宇宙のバージョンがあるのだ。
そういえば思い出したけど、小学校で遠足とか林間学校などに行くとその感想文みたいなものを必ず書かされたけども、ああいうものも紀行文の一種だとすれば、我々は随分小さい頃から紀行文に親しんでいたのだ。が、小学生の文はほとんどが「〜を見て、〜をして、楽しかった」となる。これは小学生の感想文がそういう形式しか無かったからなのであり、やっぱりみんなそれぞれ全く違ったものを見て違った感想を抱いたはず。だもんで、昔の思い出話というのはだいたい食い違うのだ。思い出が食い違うというのはとても悲しいものだが、ある意味みんな自分バージョンの世界にたったひとりで生きているのだから、仕方の無いことかもしれない。
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