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2019年11月23日05:08

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謙信の「第一義」(3)

 「第一義」で忘れてならないのが夏目漱石の『虞美人草』。そこでは「人生の第一義」は何かという問いのもとに物語が展開される。そして、「人生の第一義は道義である」というのが漱石の答。そして、この答えが「第一義」の近代的な意味である。「第一義」とは、道義に裏打ちされて、真面目に生きることである。こうして、自分をしっかり見据えた生き方が第一義の近代的意味となった。文明人にとって第一義に生きることは容易ではない。第二義、第三義で活動することもあり、それはそのまま生き難さにつながる。そして、それが行き過ぎると悲劇となる。『虞美人草』では、小野、甲野、宗近の三人の対照的な生への姿勢が描かれている。この『虞美人草』の第一義が多くの日本人の第一義の意味となり、成城学園の標語「所求第一義」にも反映されている。
 その漱石が感銘を受け、『虞美人草』執筆に至る扁額がある。それは宇治市にある萬福寺総門(1693年建立)の第五代高泉和尚による扁額である。萬福寺は中国から招請された隠元が江戸幕府の許しを得て開山したもので、和尚は書や詩文に長じた高僧。三門(山門)の前の総門を建て替えることとなり、その額字を書いたのが高泉和尚。84枚も試作した話は評判となり、高泉和尚といえば「第一義」、「第一義」といえば高泉和尚と言うほどになった。黄檗宗では、儀式作法は明代に制定された仏教儀式で行われ、建造物も中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置で、創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、国の重要文化財に指定されている。初代隠元から第13代まで中国渡来僧が代々住持(住職)を占めた。
 他にも「第一義」はあちこちに登場する。例えば、鈴木大拙の『禅の第一義』(1917年)という著作や島木健作の小説『第一義』(1936)、『第一義の道』(1936)がある。さらに、偶然に見つけたのだが、太宰治の書に「聖諦第一義」がある。謙信や高泉の書と対比しながら、彼がどのような心持でこの書を書いたのか様々に想像するのもまた一興か。
 最後に林泉寺について。1496年に越後高田の蜂ヶ峯の麓に一宇が建立された。曹洞宗開祖道元禅師から下って11代にあたる曇英慧應(どんえいえのう)大和尚が開山。越後守護代であった長尾能景(上杉謙信の祖父)が、その父重景の勲業を残そうと建立。長尾重景の法名「林泉寺殿實渓正眞大居士」から、寺号を『林泉寺』と定めた。景虎は天文7(1538)年7才で林泉寺に入り、当寺七世天室光育禅師に師事。長じてからは八世の益翁宗謙禅師の会下に参禅。不識問答を通じて、41歳の時『不識庵謙信』と名乗る。
 その謙信にとっての第一義とは何だったのだろうか。彼の政治の第一義、彼の人生の第一義はそれぞれどのようなものだったのか。これらについて歴史家の幾つかの研究があるとはいえ、素人の私には想像するしかない。その私が想像する際の「第一義」の意味は漱石に始まる近代的な意味、つまり道義であるか、あるいは仏教、儒学における義であるかであり、謙信が揮毫した「第一義」ではないのである。
 上杉謙信の第一義の実現の過程は次のように描き出される。自らを毘沙門天の化身になぞらえ、生涯を通じて「義」を追究したのが、上杉謙信。15歳で初陣以来、49歳で没するまで、川中島の戦いをはじめ、合戦は70度に及び43勝2敗25分。「依怙(えこ)によって弓矢はとらぬ。ただ筋目(すじめ)をもって何方(いずかた)へも合力いたす」と述べたが、筋目とは道理であり、大義、正義、仁義、信義である。そこに「義」を認めれば誰であれ味方する、という行動規範の基本をつくったのは、仏教修行で養われた倫理観。謙信の「義」とは、朝廷を頂点に、幕府に忠誠を尽くし、中世的秩序のもとに国家の安泰を願うこと。仏法を守護する武神は毘沙門天。この謙信の第一義、つまり義に対峙したのが武田信玄、そして織田信長。

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