ゆっくりしたテンポで、クレッシェンドも抑えられると、弛緩した演奏になる危険がある。
実際、1楽章から2楽章は、なんともいえない雰囲気だった。
老人の危険運転につきあわされているというか、指揮者本来の意図ではなくて、たまたま身体が不自由で遅くなっているという。
先日、ボザールトリオのピアニストという人が90歳越えで開いたリサイタルの映像をみたが、すごいとは思うが、指はもつれることもあり、繰り返し聴きたいようなものでもない。
そうだ、この日のメータも、CDになったらどう思うかは、ちょっとわからない。
このスローテンポが生きるのは、やはり3楽章。ゆっくり一歩一歩踏みしめて登った山から、太陽の輝きをみるような。
宇野評論で、ブルックナーは「うまく見せようとか、人工添加物のようなものを拒絶する」みたいなことを書いていて、だからカラヤンとベルリンフィルとかは絶対だめだ(朝比奈は素朴で最高だ)、ということも同時に書いてたかもわからない。
その評論は説得力のあるものだが、結局「老い」とブルックナーが相性が良いことも意味していると思う。
老いて身体が不自由になってきて、なお外面のカッコよさにこだわる人は少ない。カラヤンですら、アンサンブルの乱れが晩年は気になったし、悲愴感を出してもいた。
メータもつい数年前なら、自由自在のサウンドが作れただろう。しかし、こうして限られた動作の中で、じっくりと演奏されることで、虚飾がはがれ、ブルックナーの本質がみえてきたこともあるのかもしれない。
聴きものだったのは、この間延びしそうな危険なテンポを、じっくりと構築していくベルリンフィルの底力だ。
力任せにハイスピードにしたって、世界最高の性能をみせるだろうこの集団が、どれだけ抑えながら魅力を出していけるのか。
これはとても、誠実な音楽だったと私は思う。最大音量の時はかなりの力を見せたが、しかし、聴きものはあの静かな持続力だ。
ウィーンフィルを聴いて思ったのは、あの楽団は自分たちの音が強烈にあるということ。自分たちの歌やリズムや音色の枠を離れることはない。基本おっさんの集団だが、メイク済みの美女という感じで、そのキャラクターは絶対的。
よい指揮者は、それを利用しながら自分の個性を加えるということになるだろう。
この日のメータの指揮を受けても、きっとウィーンフィルなら、盟友でもありブルックナー正統でもあるので、強力な補整をかけて美しい歌にしただろうな、と思った。
でも私は、そんななめらかに美しいものを聴きたくはなかった。
この「老い」を、どうしようもない速度の低下を、そのままに受け止めながら、なんとか大曲をつくりあげるというその行為を、はらはらしながら聴いていたかったのだ。
宇野評論の影響で、朝比奈が正統で、メータのブルックナーなど異端だと日本人は思っていそうだが、今回記事を見ると、ウィーン大学でノヴァークに直接師事していたとか、戦後のカラヤンのブル8を学生時代に聴いて感激したとか、実はブルックナー演奏の生き証人みたいな経歴である。
サウンドの背後にきこえたのも、ラトルやアバドではなくカラヤンである。
こんな大家でなければ、ベルリンフィル相手にあのテンポは許されなかっただろう。
とはいえ、終演後に時計をチェックすると90分ぐらいだった。ノヴァーク版第2稿は短いみたいなので、それもあるだろう。
心理的には長かった。有名な、チェリビダッケのリスボン100分ブル8を聴きたくなる。このテンポは中毒性がある。
終演後、かなりブラヴォーもとんでいて、楽団員が去った後もメータが呼び出された。樫本大進と、確かオーボエの有名人が一緒に出てきたところに、この組織の関係の良さがみえた。これは、アバド時代の遺産だろう。
帰りの道では、年配の女性が「よかった〜」と2回つぶやいていた。
指揮者の体調不良というハンデが、皆で一緒に音楽に集中するきっかけになった気がした。
ライブでしか経験できないといいたいところだが、ベルリンフィルのサイトでは、このコンビのベルリン公演ブル8がみられるようだ。生放送でもみられたのかもしれない。
しかし私は、あの日の、ホールに流れる時間が、先が見えず止まりそうになったり、ぎゅっと凝縮されたりする様子は、2月のコパチンスカヤと並んで、かげがえのないものだったと言いたい。
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