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2019年11月13日00:43

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十一月の課題小説

 郵便局はすでに使われていない。それは分かっていた。私が少年期を過ごした街は、その街並みをすっかり変えてしまっていたのだ。賑やかだった商店街でやっているのは、数軒の食べ物屋と飲み屋ぐらいのものだった。もっとも、平日の午後ということで飲み屋はまだ営業してはいない。だからと言うわけでもないのだろうが、商店街に人の通りもほとんどない。商店街の中心には銀行もあったはずだが、それはなくなっていた。郵便局は廃墟だったが、銀行は跡形もなく、なくなっていた。
 昔は、この商店街に喫茶店が数軒あった。どこも、それなりに人がいたものだった。そして、その数軒の喫茶店は決められた何かがあったわけでもないのに、主婦が主に利用する店、商店主や銀行員やサラリーマンが利用する店、そして、若者が利用する店に分かれていた。それはおそらく、喫茶店のマスターやママの年齢や性格がそうさせていたのだろう。しかし、今は、それらは一軒も残っていなかった。五十年という歳月と、人口の縮小が街そのものを変えてしまったのだ。
 営業を止めた郵便局の角を曲がれば、私が行こうとしているアパートまでは十分とかからない。それなのに、私は、郵便局の角で少しためらった。行きたい気持ちと行きたくないという気持ちが交錯したのだ。それに、音楽も切れたのだ。充電が切れたのか、あるいは、いつものようにイヤホンの断線か。私はイヤホンの断線のほうを怪しんだ。今どき、コードレスでないイヤホンなど使っている人は少ない。それは分かっているのだが、どうも、コードレスの音響機器が好きになれないのだ。おかしなものだ。イヤホンはイヤホンで、コードがあってもなくても音楽は変わらない。それなら便利なのはコードレスだ。ところが、それを使うことに抵抗があるのだ。まるで、音楽に自分に支配されてしまうような、そんな気がして嫌なのだ。音楽と自分の間にコードという距離を置きたい、と、そう思ってしまうのだ。そんなことが、まったくなんの根拠もない思い込みだということは分かっている。分かっていても、その不可思議な思考をどうにも出来ないのだ。
 機器とイヤホンの接続を確認し、コードを抜き差しする。音楽はもどって来ない。耳からコードを抜くと、それは複雑にからまっていた。いつもそうなのだ。耳に入れているだけのイヤホンなのに、気が付くとからまっているのだ。しかし、音楽が切れたのは、それが原因ということでもないのだろう。私は諦めてからまったイヤホンをコートのポケットに入れて郵便局の角を曲がった。
 風景は時間を止め、事物は時間の経過を残酷に物語っていた。遠くに見える山には何の変わりもない。そこから見える建物もほぼ同じだった。しかし、山は変わらないが建物はどれも、朽ちかけていた。木造の建物のいくつかには窓もドアもない。むき出しの室内には家具は残っているが生活の気配はすっかり消えてしまっていた。
 少し離れたところに見える木材置き場には、そのまま、朽ちかけた木材が残っていた。もっとも、それは木材というよりは、廃棄物でしかなかった。実際、元木材だった物に混ざって、自転車、古タイヤ、事務用の椅子と机、パソコンだった箱、それに、便器までが捨てられていた。昔は、真新しい木材の上に寝転がって空を眺めることも出来たのだ。そうすると、まるでいかだに乗って海原を冒険する勇者の休息の時の中に自分がいるような錯覚を持つことが出来て、それが何とも愉快だったのだ。削りたての木材の匂いもよかった。今は、どこもかしこも饐えた匂いしかしない。
 不法投棄場所になった空き地の向こうにアパートが見えた。共同の玄関のドアは閉まっていた。そこに住む人がいなくなったのは五十年以上も前のことになる。私は、急げば数分で着くところにいるのに、足をゆるめた。コートのポケットの中で、からまったイヤホンのコードを片手で直しながら、ゆるゆると歩を進めた。まだ、迷っているというのが意外だった。イヤホンのコードは表面がツルツルとしているので、片手でもからまりを解くことが可能なのだ。しかし、集中出来ないと、コードはよりからまって行く。そして、コードはポケットの中でからまって行った。行きたい、そのために来たのだ。しかし、迷っていた。
 遠くに見えている木造二階建てのアパート。五十年も前から廃墟になっているのに、遠目にもそれは変わらない。商店街には、それよりも後に持ち主を失ったような建物はいくつもあり、それらは、時間の経過を素直に受けれたように朽ちていた。
 前回、あのアパートに来た時にも、それが不思議だった。窓枠もドアさえも木製だというのに、それらには朽ちた様子がなく、一階に四部屋、二階に五部屋の全ての窓には、ヒビ一つ出来ていなかった。
 アパートを最初に開けたのは、五十数年前、まだ、私が中学生の時だった。夏休みの肝試しとして廃墟となったアパートの探索に私たちは男女七人で出かけたのだった。理由は覚えていないのだが、一人がそのアパートのカギを手に入れたと言ったのが肝試しのきっかけとなった。銅色の大き目なカギはアパートのドアを開けた。どうせカギは偽物で、窓ガラスを割ってまで私たちはそこに入るようなことはしないだろうと思っていた私は、カギが本物であることで怖くなった。怖くなって、私は中に入れなかったのだ。私は見張りを申し出た。見張りなど必要ない。そんなものがいてもいなくても、大人に見つかれば逃げ場所などないドア一つのアパートなのだ。玄関は共同で、靴を脱いで木製の廊下を歩いてそれぞれの部屋に入る。トイレも共同。まるで下宿か安旅館のようなアパートだった。私は中に入っていないが、その構造は何となく分かった。そんなアパートが多くあった時代だったからだ。
 一緒に行った女の子の一人が、その昔は連れ込み宿だったものを改造してアパートにしたものだと言っていたが、おそらくそれは嘘だろう。時代が合わない。
 私を残して六人が中に入り、そして、誰も出て来なかったのだ。私はドアの外から声をかけた。アパートはシーンとしていた。そっとドアを開くとカギが落ちていた。どうしてカギを落として行ったのだろうと思った。私はカギを拾い、ドアの中から声をかけた。最初は皆が臆病で一緒に中に入らなかった私をからかっているのかと思った。それにしては、しかし、長過ぎる。私は泣いていた。中学生の男が恐怖に泣いているのだから、もう、私をからかうには十分なはずだった。しかし、誰も出て来ない。私は、アパートの裏に廻った。裏から逃げたのだと思ったからだ。ところが、アパートの裏には廊下の小さな窓があるだけだった。子供でもそこから外に出るのは無理だと思われた。
 裏からも声をかけ、もう一度、表に回った私の膝は震えていた。開けたままにしてあったドアが閉まっていたからだ。私はドアノブに手をかけた。開かない。カギがかかっているのだ。カギは私のズボンのポケットに入っていた。しかし、あまりの恐怖に私はそれを差し込むことが出来なかったのだ。
 そのまま、家に帰り眠れないまま朝を待った。朝を待って、一緒に行った友達に電話をかけようとした。ところが、誰もいなかったのだ。誰もいないというのは家にいないというのではない。六人の友達が誰も存在していなかったのだ。名前も顔も覚えている。誰かと間違えているという可能性はない。ベビーブーム時代で、一学年には二百人以上の生徒がいたが、それでも間違えるはずがなかった。
 そのまま、夏休みは終わってしまったのだが、新学期がはじまったというのに、六人の子供の行方不明は誰の口からも語られることがなかったのだ。
 私はノートに六人の名前を書いてみた。絵心があれば、似顔を描くことも出来たが、私には絵心はなかった。他の友達との会話の中にさり気なく六人の名前を出したりしたが、誰の頭にも六人の記憶はなかった。自分の記憶も整理した。六人とは塾で知り合ったとか、実は学年が違うということも考えてはみたのだが、そうした記憶もなかった。それどころか、私には六人が何組にいたのか、その組の教室のどの席に座っていたのかという記憶まであったのだ。
 石黒みくるという女の子は家まで知っていた。一人っ子で両親が共稼ぎだった彼女の家で、私たちは二人で過ごすことが多くあった。特に夏休みは多くの時間を彼女の家で過ごした。もっとも、六畳間と四畳半が全ての彼女の家には、子供部屋などないから、親の留守に忍んで入って、留守の間に忍んで出て行くしかなかった。何も出来はしなかった。それでも、私には、それが、どんな時間よりも幸福な時間に思えたものだった。性を知っていた年齢なのに、そうした行為には及ぶ勇気もなく、そのくせ、二人で親のいない部屋に潜んでいるだけで十分に性的に興奮していたのだった。
 その彼女の住んでいたアパートもなくなっていた。そこは滑り台とブランコだけの小さな公園になっていた。まるで、誰かが急遽消したアパートの痕跡を誤魔化すために、あわてて造ったような簡素でいい加減な公園だった。
 そして、六人が消えたあのアパートは、六人を飲み込んだ後も、そこに存在していた。誰もそれを不思議には思っていないようだった。高校を卒業するまで、私も、そのアパートを見ないようにして過ごした。いや、むしろ、その街の全てを出来るかぎり見ないようにして生きていたような気がする。幸いなことに父親は地方に転勤となり、私は、大学の近くに下宿することになった。あの街との縁が切れようとしていたのだ。
 あの街との縁が切れると喜んでいたのに、何故か私は、あのアパートの古い大きなカギを持ち続けていた。捨てることが出来なかったのだ。
 新しい生活がはじまってからも、私は暗い性格のままだった。暗い性格はあの中学の時からそうなったのだと私は思っている。六人の友達を一瞬で失ったのだ。別離ではない。まさに消失したのだ。そんな過去を抱えて明るく生きることなど私には出来なかった。私にとっての救いは一心不乱に勉強しているときだけだった。そうしている間だけは、あのことを忘れることが出来たからなのだ。ゆえに、私は勉強ばかりしていた。大学の時に、二度、あのアパートを私は訪ねた。なくなっていればいいと、そう思ったからだった。しかし、アパートはあった。カギは持って行かなかった。カギを持ってそこに行ったのは、ある研究所に就職して三年目のことだった。
 私は、伏し目がちに歩き、仕事には熱心だが、常にイヤホンをして外部の音を遮断しながら暗く生きていた。仕事は出来るので会社を辞めさせられるようなことにはならなかったが、しかし、変わり者として、腫物に触るかのような扱いとなっていた。それではいけないと思って、私は、あのアパートに入る覚悟をしたのだ。そうすれば人生が変わる、と、そう思ったのだ。
 しかし、カギを差し込むことは出来なかった。それからも、数度、私はアパートを訪れていた。
 アパートのドアの前に立って私はコートのポケットからカギではなく、からまったイヤホンのコードを取り出した。急に蝉しぐれが頭の中に流れ込んで来た。首筋に汗が垂れた。太陽ははじめからそこにあったのに、いっそう明るくなったような気がした。
 からまったコードを解くつもりだったのに、それは石のように小さく硬くまるまっていた。数歩下がって、私は一階の窓を目がけてそのコードの塊を投げつけた。イヤホンのコードである。ガラスを割るほどの硬さはないと思った。それでもいい。私は、友達ではなく、自分の人生の全てを奪ったように思えたアパートに一矢報いようとするかのように力任せにそれを投げた。コードはガラスを割ることのないままアパートの中に吸い込まれた。私はそれが合図であるかのような勢いでカギを出して、それをドアに差し込んだ。五十年経っているはずなのに、カギは新品のそれのように抵抗なくガチャリと音を立てて回った。ドアのノブも新しいように感じた。それを開け、私はついに踏み込んだ。靴も脱がずに木製の廊下に上がり、イヤホンのコードが吸い込まれたと思われる部屋のドアを開けた。そこにはカギなどかかっていなかった。ドアは驚くほどかんたんに開いた。
 六畳ほどの大きさの部屋の畳は真新しかった。家具はない。廃墟なのだ。部屋の中央に解けたイヤホンのコードが落ちていた。私はそれを拾った。そして、思い出した。あの時、調子にのってアパートに入ったのは私一人だったのだ。六人はカギが開いた時に止めることを決めたのだ。私は勇気を見せたかったのだ。石黒みくるの気を惹きたかったからだ。そこでつまらない勇気を見せることで、私は石黒みくると性的関係となる資格を得られると、そんなことを考えていたのだ。無意味だ。無意味だが、子供だった私にはそれがたいそう意味あることのように思えたのだった。
 私がドアの中に入ると、ドアは自動で閉まり、それに驚いた六人は声を上げて逃げたのだ。そして、私は、捕らわれたのだ、そのアパートに。恐怖に心臓が痛み、私はその場に倒れ、這うようにして、一階の部屋の一つに入ったのだ。入って来たそのドアからは出られない、と、そう思ったのだ。部屋の窓からなら外に出られると、そう思ったからだ。しかし、出ることは出来なかった。私は、そのまま、部屋の中でもう一度倒れ、そして、二度と目を開けることが出来なくなっていたのだ。
 消えたのは六人ではない、私一人だったのだ。
 この感覚は何だ。私に何が起きたのだ。私は混乱したまま何故かイヤホンを機器に入れ、音楽をかけた。流れて来たのは石黒みくるの「ホップ・ステップ・ラッカ」という曲だった。石黒みくるは私の幼馴染などではない。ただのアイドル歌手だ。
 空のコートのポケットに手を入れ、握りしめていたアパートのカギをそこで手放した。そのまま、ドアも閉めずに私は外に出た。すると、バタンと木製のドアの閉まる音がしたので私は振り返った。朽ちかけた木造のアパートがそこにあった。もう、窓ガラスさえなくなっていた。いつ崩れてもおかしくない状態の危険な建物がそこにあった。雪がちらつきはじめた。太陽は、まだ、そこにあるというのに……。
 朽ちかけた建物は、そのアパートだけではなかった。人口の急激な減少で、そこここの建物が廃墟となっているのだ。それでも、廃墟を抱えながら、街はいつもの顔をしている。まるで成人病のデパートのような身体でそれを自慢している初老の男のような街。
 死のう。決意した私は、アパートのドアの前に立っていた。確かにそこから出てドアを背にした歩いたはずだったのに……。
 死のう。そう思ってカギをアパートのドアに差し込もうとした。指が震えてカギを差し込むことが出来なかった。私には未来が見えていた。私にはそこで何が起こったのか分かっていた。見えていたのだ。分かっていたのだ。もう怖くはないのだ。そう思ってカギを差し込もうとした。どうせ私はすでにこのアパートの中で死んでいるのだ。そうに違いないのだ。
 ゆえに、このアパートに入れば、私は自分の屍と対面し、そして、時間はあの日に戻るのだ。すでに死んでいる私がもう一度、今度は正しく死ぬだけだ。それだけだ。私は覚悟を決めてカギを差し込んだ。

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