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2019年11月07日00:04

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『十二人の怒れる男』と『12人の優しい日本人』

https://www.youtube.com/watch?v=u7LtaYdnGMo

 筑紫哲也氏は、11年前の今日、旅立たれました。
 私は、筑紫氏が長年メインキャスターを務めた、TBSの『筑紫哲也 NEWS23』はそれほど熱心には見ていなかったので、上掲動画の最後の「多事争論」も知りませんでした。
 ただ、テレビではなく、生前のご本人は、目黒公会堂で見たことがあります。自主上映で、『十二人の怒れる男』(1954)が同所で上映されると聞き、行ってみると、筑紫氏がその映画を観る上で知っておいた方がよい予備知識の案内的な講演をしてくれたからです。
 『十二人の怒れる男』は、いわゆる「法廷もの」に分類されるサスペンス映画であり、密室で展開される陪審員たちの討論、いがみ合い、苦悩、揺れ動く心理等を余すところなく描き出した傑作ですが、陪審制に関する知識があればより一層楽しめる作品です。
 現在では、日本でも裁判員制度が始まってから、すでに10年以上が経っているので、陪審制も以前ほど馴染みのない制度ではなくなりましたが、それでも裁判員制度と陪審制とは大きな違いがあります。
 私も細かい点まで押さえているわけではありませんが、少なくとも、陪審制では、陪審員は裁判官とは独立に被告人が有罪か無罪かを判断し(必ず全員一致が必要。ただし有罪の場合の量刑までは判断しない)、裁判官はその判断に絶対的に拘束されるのに対し、裁判員制度では、裁判員は裁判官とともに被告人の有罪・無罪を審理し、有罪の場合には、その量刑まで判断しなければなりません。要するに、裁判官の関与の有無、量刑までの判断の要否の2点で両制度は大きく異なるのです。
 それはともかく、私は『十二人の怒れる男』を観た翌年には、『12人の優しい日本人』という三谷幸喜脚本の映画(1991)も観ました。こちらの作品も、密室での陪審員たちの審理の様子を描いたものです。
 元々は舞台劇だったものを映画化したようですが、当時はまだ裁判員制度はなかったので、仮に日本の刑事裁判に陪審制が導入されたら、という設定の下でストーリーが展開され、ために多分に本家の『十二人の怒れる男』を意識したパロディとなりました。
 よくある日本人あるあるといった感じで、いかにも日本人的な展開が可笑しくて、当時はアハアハと他愛無く笑って観たものでしたが、今にして思えば、あれは上掲動画において筑紫氏が述べていた日本に巣くう”がん”の一端だったのかもしれません。
 こんなことを考えるようになったのは、『12人の優しい日本人』に出てきた陪審員たちの幾つかの言動に、気になるものがあったからです。
 個々人を取り上げれば、本家の『十二人の怒れる男』の陪審員も、『12人の優しい日本人』の陪審員も、どちらが優れているということはなく、そんなに差はありません。
 ただ、『十二人の怒れる男』では、なれ合いやチーム作りなどはなく、あくまで陪審員ひとりひとりの気持ちが揺れ動くのですが、『12人の優しい日本人』では、最初から「楽しくやりましょう」とか、「仲良くしましょう」とか、さらには「裏切った」といったムラ的発言が炸裂します。事件の内容を正しく把握することよりも、それに当たる人々が「楽しく」「仲良く」することの方に重点が置かれ、ケンカしてでも真相を突き止めようとして、有罪派から無罪派へ、あるいは無罪派から有罪派に立場を変更するとムラの掟に背いたとして「裏切った」ことになるのです。審理すべき事件の内容自体はすでに中心主題から外れているといってよいでしょう。それよりも、いかにして(有罪派あるいは無罪派の)仲間を増やすかといったことに血眼になるのです。
 あるいは、事件の内容に関係なく、被告人が若く美人だからという理由で無罪が主張されたり、有罪にして被告人が死刑になったりしたら後味悪いからという理由で無罪が主張されたり、さらには妻に離婚を迫られた個人的事情の腹いせに有罪が主張されたりします。
 いずれもいかにも日本人的といえば日本人的なのですが、本来向かい合うべき事件の内容そのものには向かい合っていないのです。それでもまぁ映画はフィクションですから、結局は事件の内容が審理され、結論に至ることは至るのですが、現実の世界ではそんなに都合よく本来向かい合うべきものに向かい合えるとは限りません。むしろ、いつまでも向かい合わずにいる状態が続くというのが現実でしょう。
 いじめの問題にしても、幼児虐待の問題にしても、子どもの貧困の問題にしても、問題自体は早くから指摘されています。でも、少しも解決しないし、むしろ悪化しているとさえいえるのも、これらの問題にまともに向き合わず、あれこれ言い訳して問題を棚上げ、先送りしてきた結果といえるでしょう。
 こう考えてくると、日本において陪審制ではなく、裁判員制が採用されて、裁判官が審理に加わることでムラ的言動が抑止されたことはいいことだったのかもしれません。
 と、ここまで考えて、ふと思いついて、上掲動画に寄せられたコメントを見てみました。
 やっぱり、予想したとおりでした。
 ある意味筑紫氏の生前最後の姿ともいえる映像なので、故人を悼むコメントがある程度寄せられるのは、まぁ分かるのですが、問題はそれ以外のコメントです。
 筑紫氏を評価するものにせよ、貶すものにせよ、上掲動画で筑紫氏が述べたこと自体に対応したことを述べているコメントがほとんどないのです。「理路整然」とか「論理的」とか言って評価しているように見えるコメントも、具体的にどこがどう理路整然(論理的)なのか触れるところがありません。貶すコメントに至っては、左の人とか、半島人とか言うばかりです。
 これらは、上掲動画で筑紫氏が述べたことに対応するコメントにはまったくなっておらず、せいぜい筑紫哲也という人がどんな人だったかレッテル貼りしたにすぎないものです。
 もし、筑紫氏が述べたことに対応したコメントを述べるなら、そもそも筑紫氏の言う古典的な政治のイメージ(パイの奪い合い)は今日では妥当しないとか、道路に投資することが未来に投資することではないと言うのはおかしいとかの話になるはずです。
 ところが、そういう話にはならず、あいつはパヨクだったとか、ネトウヨ許さん、とかの頼んだわけでもないムラ的発言に終始しています。動画で筑紫氏の語った内容なんかハナっから相手にしていないわけです。
 本来向かい合うべきものから目をそらし続けること、はっきり言ってこれはこの国に巣くう”がん”だと思います。
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