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2019年10月02日00:03

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10月2日の日記

今日の出来事:1568年−観音寺城の戦い、1600年−関ヶ原の戦い:安濃津城の戦い、1932年−リットン報告書が公表される、1985年−関越自動車道が全線開通

今日は、観音寺城の戦いです。13代将軍・足利義輝が、三好三人衆や松永久秀に討ち取られた「永禄の変」が起こりました。足利義輝の弟・一乗院覚慶は、興福寺一乗院で門跡となっていましたが、甲賀武士・和田惟政らの手引きで奈良を脱出しました。若狭の武田義統や越前の朝倉義景を頼りました。越前で名を足利義昭と改めましたが、朝倉義景が動かない事で尾張の織田信長を頼りました。この時、仲介したのが明智光秀でした。そんな中、正親町天皇から織田信長に綸旨が届きました。内容は尾張・美濃の皇室領回復を命じるものでした。正親町天皇からの綸旨をうけた信長は、上洛と「天下布武」に向けて動き出しました。越前にいる足利義昭を美濃の立政寺に迎え入れると岐阜城を出発し、精鋭の馬廻り衆250騎を引き連れて佐和山城に着陣しました。上洛する途上には観音寺城がありました。信長は、足利義昭の近臣・和田惟政に家臣3名をつけて、観音寺城にいる六角義治に足利義昭の入洛を助けるように使者を送りました。しかし、六角義治と父・義賢はこの申し出を拒絶しました。1868年9月27日、軍勢を整えた信長は1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立し、これに三河の徳川家康勢1000、北近江の浅井長政勢3000が加わり、翌9月28日は高宮に、10月1日には愛知川北岸に進出しました。この時の織田軍の総数は5〜6万でした。これに対して六角側は、本陣の観音寺城に当主・義治、父・義賢、弟・義定と精鋭の馬廻り衆1000騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6000を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3000をそれぞれ配置し、その他の被官衆を観音寺城の支城18城に置いて態勢を整えました。六角氏の布陣は、織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測し、そこを観音寺城や箕作城から出撃して挟撃する事を狙いました。しかし、織田信長の行動はその裏をつきました。10月2日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれました。稲葉一鉄が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、織田信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉らの第3隊が箕作城に向かいました。戦端は箕作城で開かれました。木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始しました。この箕作城は急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りが固く、午後五時前後には逆に追い崩されました。木下隊では評議を行い、夜襲を決行する事にしました。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置すると一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上りました。7時間以上戦ったその日のうちに、夜襲を仕掛けてくるとは予想していなかった箕作城兵は驚いて必死に防戦しましたが支えきれず、夜明けを待たずに落城しました。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡しました。長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちた事に落胆し、観音寺城の防備が弱い事を悟ると、夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びました。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降りました。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどでした。六角家老臣・蒲生賢秀は、敗北を聞いても1000の兵で日野城に籠もり、抵抗を続けました。しかし、蒲生賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛が日野城に乗り込んで説得した結果、降伏して信長に質子を差出して忠節を誓いました。この質子が後の蒲生氏郷です。六角氏は観音寺城を失いましたが、それでも織田軍に対して抵抗しました。しかし、本領を失った六角氏の勢力は奮わず、ゲリラ的な抵抗が精一杯でした。戦国大名としての六角氏の没落は決定的となりました。京都を支配していた三好三人衆は六角氏の敗北を聞くと、織田軍と満足な戦もしないまま、京都から駆逐されました。織田信長と足利義昭は琵琶湖の三井寺に入りました。入京した足利義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣し、細川藤孝は宮廷の警護に従事しました。こうして、織田信長は畿内の覇権を掴み、足利義昭は第15代・征夷大将軍の座に着きました。

次に、関ヶ原の戦い:安濃津城の戦いです。安濃津城は、湊町として古くから繁栄を誇る伊勢国安濃郡の津に、織田信長の弟・織田信包が築城しました。安濃津城主・富田信高は、「上杉征伐」に従軍していましたが小山で石田三成の挙兵を知り、家康の命により古田重勝や分部光嘉らとともに急遽帰国の途に就きました。しかし、伊勢湾は西軍の九鬼嘉隆が制海権を握っていました。富田信高は「私はまだ東西いずれに属すか決めかねておりますので、九鬼嘉隆殿と一緒に進退したいと思います」とその場を逃れて安濃津城に入りました。分部光嘉は居城の伊勢上野城が手狭で兵力も少ない事から富田信高と合流して安濃津城に入り、松坂の古田重勝も鉄炮隊長・小瀬四郎左衛門に五十人の兵を付けて安濃津へ加勢しました。しかし城内の兵力は、援軍を合わせても1700でした。一方、西軍は毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親・鍋島勝茂など30000を超える大軍でした。吉川広家・安国寺恵瓊らの主力軍が村々に放火しながら城の西南から攻め寄せました。やがて二の丸、三の丸まで押し込まれ、富田信高が本丸に引き返そうとしたとき突然、城門が開いて美しい若武者が一人で打って出ました。緋縅の具足に中二段の黒革縅に身を包み、前立ては半月の兜を被り、片鎌の手槍で勇敢に戦い、毛利秀元の家臣・中川清左衛門ら5、6人を討ち取りました。この若武者は、富田信高の妻でした。これにより城兵もよく頑張り、弓や鉄炮を乱射して西軍の猛攻を持ちこたえました。西軍は、高野山の木食上人らを城内に遣わして降伏開城を勧めてきました。開城を決めた富田信高は専修寺で剃髪し、高野山にのぼりました。しかし、西軍の3万の大軍を釘づけにした功が認められ、関ヶ原の合戦後に家康から2万石の加増を受けて安濃津城に復帰します。

その次に、リットン報告書の公表です。リットン調査団は、国際連盟によって「満州事変」や満州国の調査を命ぜられたイギリスの第2代リットン伯爵・ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称です。1931年、南満州鉄道が爆破される「柳条湖事件」が発生しました。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝・溥儀を執政として満州国を建国しました。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出しました。調査団の日程中の諸経費はすべて日本および中華民国の負担とされました。調査団はまっすぐ満洲入りするのではなく、日本、中華民国(上海、南京、北京)の視察も行いました。日本では荒木貞夫陸相、中華民国では蒋介石、汪兆銘、張学良、満洲国では「執政」の座にあった溥儀と会談しました。さらに満洲で抗日活動を続ける馬占山将軍との会見を試みましたが、日本側の反対に会い実現できませんでした。調査団の視察は1932年6月に完了し、8月より北京で調査報告書の作成を開始し、10月2日に報告書を公表しました。報告書では、もと不毛の荒野であった満州の住人の大半がいまや支那人であり、これは日本の地域経営の成果である。この地域の主要勢力であった張作霖はこの地域の独立を志向していたのではなく、あくまで支那の政権であると自認していた。支那中央政府の権力が極めて微弱であり日本人が保護されていない。といった中華民国と満洲国の実情を述べた後、以下のように論じています。・柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。・満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。・満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。国際社会や日本は支那政府の近代化に貢献できるのであり、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよい。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力や挑発を行使している限り、平和は訪れない。この報告により、イギリスやアメリカ、フランスやイタリアをはじめとする連盟各国は「和解の基礎が築かれた」と大きな期待を持ちました。満州国が独立を宣言すると中華民国政府は承認しませんでしたが、日本は同国の独立を承認しました。

最後に、関越自動車道が全線開通です。関越自動車道は、三国山脈を貫いて東京と新潟県を結ぶ高速道路で、上越新幹線とともに首都圏と日本海側を結ぶ高速交通網として重要な機能を持っています。日本有数の豪雪地帯を貫いており、沿線(上越エリア)には多くのスキー場が存在し、首都圏とこれらのスキー場を結んでいます。このため、冬期に通行困難となる並行一般道救済のために追加設置されたICが多くあります。水上IC−湯沢ICには谷川岳を貫通する、道路トンネルとして日本最長の関越トンネル「11km」があります(ただし、2013年度完成予定の首都高速中央環状品川線のトンネル部は、連続する中央環状新宿線のトンネル部と合計して約19kmと関越トンネルを抜き日本最長になる予定)。1985年10月2日:前橋IC−湯沢ICの開通により全線開通し、練馬IC〜長岡JCTの246.2kmが全通しました。長岡JCTから北陸自動車道へ、後に藤岡JCTから上信越自動車道が分岐し、首都圏と北陸地方、長野県北信・東信地方を結ぶ高速交通網となりました。

今日の誕生日:パウル・フォン・ヒンデンブルク、マハトマ・ガンジー、小沢治三郎、小原乃梨子、青空好児(青空球児・好児)、小島一慶、室伏重信、プリティ長嶋、堀内一史(ユニコーン)、ダンナ小柳(電撃ネットワーク)、山瀬まみ、ティファニー、鳩山来留夫、浜崎あゆみ、miyake(mihimaru GT)、吉河美希、志村理佳(元SUPER☆GiRLS)、杉咲花、クリス松村、ミンキーモモ

今日の記念日:国際非暴力デー、守護天使の日、豆腐の日、東武の日、跳びの日、シャツの日、とんこつラーメンの日、イオンレイクタウンの日

今日の「今日訓」:本日は、1869年、インド独立運動の指導者で非暴力を説いたマハトマ・ガンジーの誕生日で「国際非暴力デー」、全ての人についていて、その人を守り導く守護天使を記念する日で「守護天使の日」、1877年に横浜で国産のシャツが製造されるようになった事で「シャツの日」、2008年、「イオンレイクタウン」がオープンした事で「イオンレイクタウンの日」、「とう(10)ふ(2)」の語呂合わせで「豆腐の日」、「とう(10)ぶ(2)」の語呂合わせで「東武の日」、「と(10)び(2)」の語呂合わせで「跳びの日」、「とん(10)こつ(2)」の語呂合わせで「とんこつラーメンの日」となりました。
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