mixiユーザー(id:6393203)

2019年09月28日22:12

97 view

「申請書類と実態に乖離」=補助金不交付で萩生田文科相

■「申請書類と実態に乖離」=補助金不交付で萩生田文科相
(時事通信社 - 09月27日 13:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5804484

>>>>>
萩生田光一文部科学相は27日の閣議後の記者会見で、文化庁が国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」への補助金不交付を決めたことに関し、「実施のプロセスの段階で、申請書類と実態に乖離(かいり)があった」とし、申請した愛知県側に手続き上の不備があったと述べた。

 従軍慰安婦を象徴する少女像など企画展の展示内容については「基本的にはどの作品が良い作品で、どの作品が良くない作品だとわれわれがコメントすること自体せんえつな話で、(不交付決定とは)全く関係ない」と強調した。 
>>>>>

あいちトリエンナーレ2019の問題は、複合的、多重的な側面を持ち、まるでラーメンのスープの話題かという気がしないでもない。

アクターはそう、多くはない、補助金を出した文化庁、それを使い開催を決めた愛知県、そのお金を使ってイベントを企画、実施した美術関係者。そしてテーマや作品への反対者、SNSでの意見表面に留まらず、脅迫を実行した犯人。

現代美術は難しい。1世紀前の芸術なら、たぶんみんな分かる。ピカソの絵がわからん、という人だって、でもお高いんでしょう、くらいは言える。所が、現代美術としきたら、尿瓶をさかさまに立てただけで、芸術ですと言ってしまうのである。

それが堂々と美術館に並べられている。それを分かったような顔をしたり、疑問符の浮いた顔をして眺めている。それも含めてアートなのだと言ったりする。これを見た時の、なんだ、これは?というインスピレーションこそがアートであると主張する。

人が立ち止まり、一瞥でもくれたのならそれはアートなのだ。そこにあるものが何であれ、それはあなたの常識を揺さぶったはずだ、と言う。

所が現代美術である限り、現代の問題と向き合わないという事もありえす、そういう問題を取り上げるも、取り上げないも、ただ芸術家の気質にしか依存しない。政府批判をしたり、歴史を振り返ってみたり、デストピアに邁進してみたりと芸術家だって、不安なのである。

そういう作品を展示し、みんなに楽しんでもらおうとしたトリエンナーレである。イタリア語で三年に一度という意味らしい。トライアングルのトである。

この作品群の中に日本の戦争を色濃く含んだ作品があったことだ。しかも「表現の不自由展」と銘打った。これまで様々な規制を受けてきた作品を集めたものだ。批判が来ることは承知していたのだろうが、その圧力は強く脅迫が起きた。京都アニメーションの蛮行の記憶は新しい。同様の事が起きたら、というのは、主催者たちが、その作品を取り下げる十分な理由であった。

ここにおいて、表現の自由とは何か、作品への好き嫌いとは何か、作品と暴力との関係とどうあるべきか、脅迫に屈服する自由の価値とは、と様々な側面を見せたのだが、残念ながら、問題の本質は誰も捉えていないように感じられる。誰もが、批判はするし、意見表明をするが、どう考えるべきかという理念を示せずにいる。

これが単なる権力闘争なら、開催を中止に追い込んだものたちは成功に満足しているだろう。もちろん、彼らは自分たちが何をやったかには無自覚だし、下手をしたら言論の自由という言葉さえ知らないはずだ。だが、”不快”なものを拒絶する権利は誰もがもっているはずであるし、それを表明する言論も、自由であるはずだ。

たとえそれが差別や偏見であっても、それを止める論理を表現の自由は持たない。自由という限り、あらゆる制限は否定されなければならない。それだとこの社会が構成できないというならば、我々は、自由をどこまでは譲れるか、という議論と、では譲れない場合は、どのような対決方法を持っているかを知っておく必要があった。

問題は、自由などにはなかったという事である。芸術家は作品によって自分を披露する。そして、人々の嘲笑や軽蔑を受ける場合もある。無残にも作品が泥まみれにされたり、火をつけられたりもする。社会によっては、それを当然とする。それは何も他の国の話ではない。この国だって、昔はそうであったし、今だって、知らないだけで自己検閲、自粛なら腐るほどやっている。

我々は元から自由について語るだけの理念も思想も持っていない。ごっご遊びをしていて、問題が起きる度に、互いに妥協点を見つけ出してきた結果が今であるだけで、本質から考えてみた結果ではない。我々の自由は、おそらくアメリカの人が命を懸けてまで守ろうとする自由とは異なる。

その自由の違いというものが、アジアとヨーロッパ的なものの違いなのか、それともこの国に独自に生まれたものであるかは知らない。だが、そもそも何の制限も受けない自由など、人間は一度も手に入れた事はない。常になんらかの様々な圧力を受けてきた。我々には空を飛ぶ自由さえない。この重力からさえ抜け出せない。

だけど自由はあるという、そう、その自由はこの脳の中にだけある。その中にだけはある、と信じている。薬で考える自由を奪われた患者だっているし、手術で前頭葉を切られた実験台だっている。それでも、我々はその自由だけはあると信じている。

ならば、脳の中にあるものを、外に出す自由はどこまで自由なのかという問題になる。だが「表現の不自由展」が狙ったものは、非常に金の匂いがする。どうも津田大介であることが問題な気もする。あいつがかかわったものを芸術を呼ぶ気はしない、というのが更に問題をややこしくする。

芸術がやりたければ、金などとらずただでやれ、駅前で歌っている人たちのようにだ。もし金をとるなら、それは作品ではない、商品である。芸術だってもちろん、商品である。だが商品なら、重要なのは品質である、売れないものは廃棄される。クレームがきたら対応しなければならないかもしれない。

すると、これはクレームに対して単に商品を陳列台から取り下げただけの話かも知れない。ブランド品だって、黒人を馬鹿にしていると指摘されたら取り下げている。それとどこが違うのか、グッチやプラダだって自分たちの商品は芸術品だと堂々と主張しているはずだろう。

芸術だから自由があるのではない。商品だから自由がないのでもない。自由はある。厳然とある。だが、その自由は、経済の中に取り込まれた時、どれだけ残るかは世界中の誰も知らないはずだ。それをテレビを通じて発表したいなら、これこれの規則は守ってくれないとダメだよ、という主張を覆せるものはいないはずだ。

インターネットがもたらしたSNSは極めて人の自由を拡大した。自分の考えを表明する自由もあれば、それを批判する自由もある、そんなことは17世紀の人だって当然と考えていたのだが、多くの人が手にした自由は、それが批判であるのか、罵倒であるのかさえ区別がつかない我楽多であった。

作品と呼ぶには、なんらかの形にしなければならない。そんなことは藤原定家の頃から当たり前の話であった。だからといって歌の形をした言葉と、罵倒、侮蔑する垂れ流しのような言葉に何か違いがあるわけではない。

誰も、どんな対応が正しかったのかは知らないはずだ。仕方がないね、と恐らく誰かが口にしたはずである。この国の人の美点は妥協点を見いだすのが恐ろしく早い点にある。ついでに、そうやって落ち着く場所が決まると、それを笠に着て横柄な態度を取る人がわんさかと生まれるのもこの国の特徴であろう。

本音も建て前もバレバレであるのに恥ずかしげもなく自分の主張を通そうとする人もいる。そういう人が出世するのは世の常である。自分の経験を積み上げてそして判断を磨く。そういう人もいれば、原理、理念を出発点に、判断を磨いてきた人もいる。どちらが正しいかでも強いかでもない。

どちらも老化などによって簡単に害悪に落ち込むという事だ。社会の通念が変われば、あっという間に、害悪にも善良にも変わる。経済活動に組み込まれれば、正義は数字に置き換わる。

この事件は起きた事よりも、それをとりまく様々な人の意見表明、名古屋市長と県知事を始めてとする、に特徴があるような感じがする。ひとつひとつを見れば、どれも一理あるし、何等かの本質的な問題を突き刺している。国家とは何か、言論とは何か、表現とは何か、自由とは何か、経済とは何か、そういう様々な思惑と関係が絡み合って、だれもが問題の全体像が描けていない、誰もがある一側面でしか語れないという点にある。

つまり、我々は本当は何が起きたのか、誰も知らないという事だ。

そこにまた間抜けがのこのこと参加した、そういう話しである。

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年09月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930