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2019年09月09日21:25

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朝妻城

朝妻の地は湊だけでなく、天野川が琵琶湖に流れ込んでいる事からも湖上交通の要所であった。さらに中世、八日市場のあった箕浦を得て中山道に通じる朝妻街道をも抑えていた。

朝妻城は新庄直昌の築城と伝わる。新庄氏は初代・俊名が坂田新庄(近江町)に居住して新庄氏を称した事に始まる。直昌は天文18年(1538年)に江口の戦いで戦死している。しかしこれは畿内の三好家の内戦であるため、直昌が参戦に至った経緯が気になる。

この地は湖北の浅井氏と湖南の六角氏の勢力圏に挟まれており、新庄氏の立場は不安定であったが最終的には浅井氏に仕えた。朝妻城の築城は朝妻湊を支配するため浅井氏が命じたものと言われている。直昌の戦死により嫡男の直頼が家督を継承する。元亀元年(1570年)姉川の戦いで浅井軍の第四陣に加わっていたが、翌年に織田軍の丹羽長秀が浅井家重臣・磯野員昌が守備する佐和山城を降伏せしめると長秀が朝妻城にも攻め寄せたため直頼も降伏した。

その後は羽柴秀吉の与力となるが次第に家臣化していく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍して近江の坂本城を守備。同年には摂津・山崎城で3万石を与えられた事により朝妻城は廃城になったとされている。

その後の直頼は天正19年(1591年)に近江・大津城で1万2千石(嫡男・直定の所領を含めると2万4千石)に移封となり、秀吉の馬廻りを努めている。文禄元年(1592年)の文禄の役では3百の兵を率いて渡海しており、文禄3年(1594年)には大和・宇陀城を得て摂津・高槻城で3万石に加増。同時に御伽衆に列した。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて直頼は西軍に属し伊賀国へ出兵。東軍に属した筒井定次の居城、伊賀上野城にいた守備隊を追い払って占拠した。西軍についた理由としては当初東軍に属そうとした所、周囲の大名がこぞって西軍に属していたためやむなく従ったとしている。

一方、定次は関ヶ原の本戦にも参加していたが居城占拠の急を知って帰国し城を囲んだ。直頼は定次の子を人質とする事で和睦し退去したが戦後に新庄家は改易となる。慶長9年(1604年)、家康に召されて赦免され、徳川秀忠より常陸国にて3万3百石を与えられ麻生藩を立藩するに至った。慶長17年(1613年)死去。享年75。


朝妻城は現在、中嶋神社となっている。集落の一帯にはかつての堀が用水路として名残をとどめている。
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