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2019年08月16日21:16

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【ケネス・クラーク『ザ・ヌード』「VII 陶醉」347】

に於いては、意志は消滅し、肉體は何か非合理的力に捕へられる。それ故、身體はある點から別の點まで、最も目的に適つた最短距離にしたがつて移動するのではなく、捩れたり、跳びはねたり、後に戻つたりして、あたかも永遠に存在し續ける假借ない重力の作用から何とかして逃れようともがいてゐるかのやうに見える〔212圖〕。陶醉の裸體像は本質的に不安定であり、それが地面に倒れてしまはないのは、意識的に統制を保つてゐるからではなく、必ずしも正しい言ひ方ではないが、ちやうど醉つぱらひを見守つてゐる攝理のやうな無意識の均衡を辛うじて保つてゐるからなのである。

最初のディオニューソス的情景は、適切にもまづ酒盃の裝飾に登場する。それは、紀元前五世紀の初めに見られるもので、サテュロスは跳び上り、マイナデスは頭を大きく後にそらし、腕を前の方にふりながら行列するといふその後八百年間にわたつて續いた基本的姿態を見せてゐる。こねやうなモティーフは明らかに繪畫的なものであつて、彫刻的なものではない。事實、彫刻作品のかたちで我々に傳へられたものも、その線描的性格から見れば、明らかに繪畫に基づいた作品である。現在殘つてゐる二組の浮彫は、失はれたもとの作品についてある程度のことを教へてくれる。そのうちひとつは、おそらくはアポローン・カルネイオスの巫女たちと思はれる女たちが、短いスカートをつけ、カラティスコスとよばれる麥藁帽子をかぶつて何かの儀式のために踊つてゐるところを示してゐる。彼女たちは、プリニウスがカリマコスの作品として語つてゐる《踊るスパルタの女たち》のレプリカであることはほとんど疑ひない。現在その姿が傳へられてゐるのは、硬玉やアレッツォ焼きの裝飾、および、ベルリンにある二點の大理石浮彫によつてであるが、この二點の浮彫はきはめて清新潑溂とした表現をもつてゐて、あたかもデジデリオ・デ・セッティニャーノの作品を思はせる。マイナデスたちの踊りと違つて、彼女らの動作は強い緊張感と統制を見せてゐるが、しかしその炎のやうに揺れる動きは見る者に豐かな陶醉感を與へ、爪先立つたその姿は、地上から離れようとしてゐるかの如くである〔213・214圖〕。
フォト

〔213圖〕カリマコス作品の模刻《踊る女》 B.C.4世紀(?)
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