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2019年07月27日10:14

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え?私ですか?

卒業式の日の最後の終礼が終わった。先生が去ると、みんなはめいめい席を離れ、親しい者同士があちらこちらに固まりはじめた。別れを告げたり、記念品を交換したりするためだ。

挨拶を交わす者など一人もいない僕は、荷物をまとめて、いつものように部室に向かおうと足早に戸口にむかった。

ふと見ると、あちらの隅に集まった数人の女の子たちが、こちらに向かって手招きをしている。まさか自分のことではないだろうと振り返ってみたが、後ろには誰もいない。

「え?オレ?」と自分を指さすと、女の子たちは返事のかわりに照れ臭そうにキャッキャと笑った。

どうしようか迷ったが、まさか無視して通り過ぎるわけにもいかない。呼ばれるままに近寄ると、一人が「一緒に写真をとってもいい?」と言う。ちゃんとカメラが用意されている。

「え?オレ?」

この女の子たちと親しくした覚えはない。何だか狐につままれたような気分で、あちらの申し出どおり、女の子たちの間に不器用に突っ立って、写真におさまることになった。

「東京でもがんばってね」

「うん、ありがとう」

どうやら、彼女たちは自分が東京の大学に行くことも知っているらしい。

後で知り合いから聞いたが、その女の子たちのなかの一人が僕にずっと好意を抱いていてくれたらしい。その女子のグループでは自分は一種のあこがれの的であったらしい。

迂闊なことに、そんなことも知らずに僕は高校での三年を過したのであった。

――――

先生の講義を上の空で僕は聴いていた。あそこの席に座っている女はこの大学にしちゃ器量よしのほうだな、何とか知り合いになれんかな、いや、それより早く帰って昨日買ったCDを聞かないと…

ふと顔を上げると、先生と視線があった。

「そこのあなた、どう思いますか」

突然、先生がこう言うのが聞こえた。

「え、僕ですか?」

「そう、あなた」

僕は先生が何について話していたのか思い出そうとしたが、逆に頭が混乱してしまって、何について聞かれたのかまったくわからなくなってしまった。

自分がしどろもどろになっていると、「先生、私、わかります」と前嶋の奴が手を挙げ、先生の許可を待つまでもなく自分の考えを述べはじめた。僕が困っているのを見て助け舟を出してくれたらしい。多分、あとでビールでもおごらせるつもりだな、と思ったが、心の底ではこの友に感謝した。

前嶋が意見を述べ終わると、先生は「なるほど、たいへんよろしい」と言った。しかし、また僕の方に向き直ると、「それで、あなたは?」とまた聞き返した。

「え?僕?」と僕は不意を突かれて、また同じことを聞いた。

「そう、あなた」と先生も繰り返した。「あなたはどう思うのかな」

――――

上の二つは自分の勝手な創作である。一つはうれし恥ずかしの体験だし、もう一つはあまりありがたくないものであるが、どちらも他とはちがう一人格としての自分が突然呼び戻されたときの状況である。だが、いったいどこから「呼び戻された」のか。

女の子たちや先生に呼びかけられるまで、「僕」は大勢のなかに埋没していた。「僕」は「同級生」や「学生」の中の一人であって、自身の自我は誰の関心の対象ともなっていないと思っていた。

しかし、「僕」は「君」とか「あなた」と呼びかけられることによって、「同級生」とか「学生」の一人としての自分ではなく、他の同級生や学生とは異なる自分自身にスポットライトが当たっていることを悟る。

思い出してもらえば、他人とは異なる存在、唯一無比の存在としての自分というのが自我の一つの意味であった。この自我を認めてもらいたいというのが近代的個人の一つの要求であるということになっておる。

しかし、この二つの例が示すように、自我を認めてもらうことはうれしい反面、迷惑であることもある。大勢の中に隠れているのに、そこから選り抜かれることは名誉でもあるし、また災難でもありうる。人はときには、自分自身であることから逃避しようと思うのである。

前者の場合、自我が認められるのはうれしいのは、誰かが大勢のなかから外でもない自分だけを選んでくれたからである。「あなたじゃないとだめなの」「君でないとだめなんだよ」というのが、恋愛を甘美にする究極の言葉である。だから、自我を追求する近代小説では、不倫の恋というのがお気に入りの主題になる。

恋愛感情が結婚の前提となった今日では、この点がわかりにくくなったのであるが、かつてドイツに夫なりすまし事件というものがあって、ライプニッツなどに引用されているらしい。夫が旅に出て音信不通になり、なかなか帰ってこない。そこに夫を名乗る人間がやってくるが、実はこの人は偽物である。旅先で夫に出会ったこの人物は、外見が似ているのをよいことに、夫から根掘り葉掘り過去の記憶を聞き出したのである。

さすがに女房はこれが偽物であると気付いたらしいが、追い出すどころか、この新しい亭主を受け容れようとする。寡婦が生きていくのが難しい時代であったから、帰ってくるかどうかわからない夫を待つよりも、この偽亭主に添い遂げようと思ったらしい。

つまり、女房にとって重要なのは自我をもつ夫ではない。食い扶持を稼いでくれて、自分と子供の面倒を見てくれるかぎりは「夫」の機能を果たすわけであり、その役割にはまる人間はとっかえがきく。誰でもよいのである。

結局は本物の夫が帰宅して、偽亭主は処罰される。この女房がその後どうなったか知りたいのだが、その辺のことは書いてない。時代がちがうから一概に女の不義を咎めるわけにもいかないが、われわれの感覚であると夫婦関係は個人の絶対的個別性にもとづかなければならないから、この女房の行動には同情が湧きにくい。

これは夫婦関係にかぎらない。愛情とか友情、そして師弟関係などにおいては同じ役割を果たすならば「誰でもよい」ということにはならんのである。だから、恋人とか友人などという関係には、時に過剰なほどの期待が背負わされる(師弟関係への期待はすでにかなりドライになっていると思う)。

しかし、二番目の話では、この自我を認められることがかえって重荷になっている。せっかく先生が自分を外でもない個性として扱ってくれたのに、本人はまたその他大勢のなかに埋没したいと思うのである。なぜそんなことになるかというと、自我を認められるということはある責任を負わせられるということでもあるからだ。

レヴィナスという哲学者の言葉を借りれば、これはresponsabilité とフランス語で呼ばれるものである。訳せば「責任」なのだが、その語幹にはrépondre、つまり「応答する」という意味が含まれている。つまり、責任をもつとは呼びかけに答えることができるということの別の謂いである。自我を認められるには、他人からの呼びかけに対して応答することができなければならない。

自分の創作では、先生の呼びかけに対して文字どおり応答を迫られている。しかし、応答ができない/自分の意見に責任を持てない「僕」は、むしろ匿名に戻ることを望む。自我を放棄して、「学生」の一人として埋没してしまいたいと願う。

―――

こんなところでつぶやいている自分を、団地の公園で一人で語っている人みたいですねと評してくれた人がいる。それじゃただの変人じゃないかと苦笑いしたが、彼は誉め言葉としてこれを言ってくれたのである。つまり、自分が公園で語っているのを、団地の人々は窓からこっそり耳を傾けている。こっそりというのは、私の書いたものに対して応えてくれる人がほとんどいないからである。まったく適切な譬喩なのであった。

しかし、そうすると、団地の住人たちは、私が彼らに語りかけているとは思っていないのである。だから、自分たちは第三者的立場にある傍観者、あるいは匿名の大勢のなかの一人にすぎないと思っている。だが、そうであるなら、私は誰に向かっても話しかけてないことになって、やはりただのあぶないおじさんである。

だけど、マス・コミュニケーションの時代である。不特定多数に向かって話しかけている奴はごまんといるはずだ。そういう自分だって、新聞を読んだり、テレビを見たり、選挙演説を聞いたりするときに、自分に対して呼びかけられているとはあまり考えてはいない。つまり、応答しなければとは感じていないわけであり、無責任である。

誰に話しかけているかわからないような報道でも、エネルギーを節約しろとかプラ袋を使うのを控えようとかいう、自分に対する呼びかけが含まれているかもしれない。そもそも、そうでなければ、そんなことを報道したりしないだろう。これが広告であれば、語りかけられている者の中に自分も含まれているのは明かである。「当社の製品を買ってください」というものもそうだし、「選挙に行こう」のような広告だって同じだ。

だが、どういうわけだが、マス・メディアに媒介されたような不特定多数向けのコミュニケーションは、直接の対人関係におけるコミュニケーションのように、呼びかけられているのは他でもない自分自身であるという感じを起こさせる力が弱い。あまりうれしくもないが、無責任に聞き流すことも容易だ。先生の講義が退屈なのも、それが聴講している学生一般に向けての話であって、自分ひとりに対して向けられたものではないからである。自分がいなくてもコミュニケーションは成り立つのである。そうしたマス・コミュニケーションにおいては、自我は容易に大勢のなかに埋没し隠れることができるのである。

だから、マス・コミュニケーション社会でおなじみの風景とは、「あなた、そう、そこのあなた」と通りかかる人びとに片っ端から呼びかける呼び込みと、それを聞きながら聞かぬふりをして通り過ぎる通行人たちの群である。そうしたコミュニケーションに押されて縮小しているのは、おそらく「汝よ」と呼びかける、媒介されない対人関係におけるコミュニーケーションである。自分を慕ってくれる女の子にしろ、目にかけてくれる先生にしろ、それはそうしたコミュニケーションなのであった。

続く。
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