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2019年05月30日23:28

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この2Verの比較自体がそもそも不適正。

またも同じ題材で書く(笑)。

重複する部分もあるけれど、先ずこの記事のおかしさ。

なぜ「唐沢版との比較」で本作を記事化するのか!?
いや、いいっちゃいいけども、原作が先ずあって、原作にほど近い描き方をした
田宮版がこの作品評価の土台としてガッチリあるわけで、
順番としてここをすっ飛ばす事自体が歪。

その上で、次に「村上正明版」があって、その次が唐沢版。
正確には「田宮映画版」→「佐藤慶版(1話以外映像記録が残ってない)」→
「田宮ドラマ版」→「村上版」→「唐沢版」→「岡田版」の順。
したがって、記事の比較は5番目と6番目・・但し佐藤版は比較検証が不可能なので、
4番目と5番目の比較で本作の評価としている・・この時点でおかしいのね。

後ろの2つでどっちがどうの・・って、ここに意味がないとまでは言わないまでも、
山崎女史の普遍的な原作・・ということに一部触れながら、
直近2作の比較評価でこの作品の素晴らしさについて語ることの違和感たるや。

そもそも、原作から色々と変えてしまったのが唐沢版なので、唐沢版を基点にした
岡田版との比較自体が本作そのものを考察するには実に不適当なんだな。
どうもこの内容だと記事を書いてる者は、おそらく原作も田宮版も
ちゃんと観てないんだろう。

それはそうと。財前と里見の友情描写・・。
これ、分量質量は別にせよ、そもそも田宮版で同じように描かれていたわけなので、
岡田版で変えたのではなく「唐沢版」が変えていた・・ってのが正しいのね。

最後の手紙内容にしても、里見による真の友情に気が付き、
病室で涙までして里見に手を差し出し感謝する描写は、
田宮版でしっかり既に描かれていたんであり。

もっとも、手紙文面をはじめとする財前の“我の強さ”辺りについては、
原作を踏襲しているのが唐沢版ではあるものの、財前五郎という人物にある
真のヒューマニティをクローズアップさせ、憎き醜態を晒し続けて来ても、
死を前にして最後は素の人間、素の財前五郎であることをフューチャーすべく、
田宮二郎が山崎女史に掛け合って完成させたのが、田宮ドラマ版。

したがって、描写の内容に異なりはあっても、実は岡田版で
「原点回帰」したのが本当の所だろう。作品の順序としては唐沢版が先なので、
そのまんまの比較にしたのだろうが、基からの順序と内容の経緯を順当になぞるなら、
唐沢版を基軸にした比較は不適当なのね。

それから「花森ケイ子」。
財前の愛人であるこの役は、単なる愛人にとどまらない、実に重要な位置づけにある。
教授選を中心にした「諜報〜指南役」だけじゃなく、一見してクールな女性に見えて、
田舎で一人過ごす母を気にかけ続ける財前に気づき、大阪に呼び寄せ
近くに住まわせる提案まで行い、そのことで財前が喜び、それを受けて共に喜び合う・・
第二の親族、第二の母親のような素朴で懐の深さがケイ子の真の姿。

本来は、実妻と顔を合わせることもなければ、最後の病床に顔を出すことさえしない。
財前の母親を病院まで引率するも、病室に入ることをせず姿を消した。
何処までいっても所詮は愛人でしかないことをわきまえていた設定だったんであり。
当然、財前出張先の外国にお忍びで出向くなんて図々しいこともしない。

愛人でありながら、立場をわきまえた品位を従えていたのが本来のケイ子。
それが、唐沢版でも岡田版でも格段に下げた状態に。
なので、記事中の「屋上」とは関係なく、ケイ子をキーマンとしての位置付けから
一段落としてしまったのが、唐沢&岡田版のケイ子なんだな。
単なる愛人の範囲に留まってしまった存在、という。

俳優の力量差は、昔と今とを今更比べても野暮ってもんで、それ以外の
脚本と演出を弄って、原作由来の荘厳さや緻密性、ヒューマニティまで変えては、
白い巨塔ではもはやないんであって、リメイクを始めてからどんどん乖離したわけで、
もはや唐沢版で随分と変わっていた・・ってことをどうあれ踏まえないと、
折角の大作評価としては不適正になってしまうと思うけどねぇ。
それがあって、次の「好み」に移る話なんだから・・。

岡田准一『白い巨塔』唐沢寿明版との“決定的な違い”に反響続出「印象が全く変わるね」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=140&from=diary&id=5642248
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