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2019年02月23日01:04

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確かに君はそこにいた、その2

 まだ、喫茶店のチェーン店といえばルノアールぐらいだった頃の話。
 その頃は喫茶店の椅子と言えば華奢なものだった。たいていは背もたれと座面が直角で、いかにも、長居をさせるものかと言わんばかりだった。そんな窮屈な椅子に、その男はふんぞり返って座っていた。まるで高級なイタリア製のソファにでも座るように優雅に座っていた。膝を組み、その膝に左手を乗せ、元プロボクサーという大きな手には小さ過ぎるような文庫本を持ち、あまった右手でコーヒーカップを持ったまま本を読んでいるのだった。
 筆者は彼ほど粗野に本を読む男を彼ともう一人しか知らない。もう一人は元柔道だったと記憶している。
 筆者が近づくと「今日は一緒に行きますか、行きませんか」と、言う。飲みには行かない。彼は酒を飲まなかった。一緒に行こうと言っているのはサウナなのだ。しかも、彼の行くサウナには筋トレマシーンが設置されていた。トレーニングして、そのままサウナ、それが彼の何よりの楽しみだったのだ。
「打ち合わせが終わるならいいですよ。サウナをご馳走しますよ。ヤクルトも二本付けましょう。ただし、夕飯代は各自持ちでね」
「やろうよ。打ち合わせ」
 本を持った膝の上の左腕をずらして膝に左の肘を乗せる。筆者に対して前のめりになった格好だ。彼は現役のボクサー時代にはウエルター級だったと言うが、すでにライトヘビーのウエイトだった。迫力があった。
 ところが、彼の得意は女の子を主人公にした一人称の小説だった。女心を書かせたら女よりも上手だと言われていた男なのだ。それなら女装趣味とか、あるいは、同性愛というのも考えられるが、彼にはそんなところはなかった。どこまでも男っぽかった。読んでいる小説もハードボイルド専門だった。彼に習って女の一人称を勉強するために女流作家、それもアイドルとか女優の作品ばかりを読み漁っていた筆者とは、まったく対称的な男だったのだ。彼がどこで女性文体を会得したのか、筆者は何度か尋ねたことがあるのだが、彼は笑って「文体に男も女もないだろう」と答えるのだった。
「悪いことしてきたなあって思うんだよ。泣かせてきちゃったなあって思うんだよ。不幸な女ばかり作ってきたなって思うんだよ。背が高くてケンカ強くて、そんな男にしては頭も悪くないから、まあ、普通にモテたんだよ。だから、いい気になってたのかなあ。何でも出来ると思ってたんだなあ。でも、ボクサーになったら負けてばかり、強くなんかなかったんだよ。それが分かった頃から女にもモテなくなってさ。思えば、十代の頃はよかったけど、二十代になったら俺にはいいとこなんてなかったんだよ。ケンカ強くたって二十代じゃあ意味ないだろう。プロボクサーとしても強いなら別だけど、それはなかったわけだしな。挫折と反省。人生が嫌になって本ばかり読んでた。そんなに本が好きなら書いてみればいいのにって言われてさ。それがSМクラブの女王様やっている女だったんだよ。店に取材に来る出版社の人を紹介するって言われて、そこで文章を書く修行したんだよ。女に悲しい思いさせてきたからさ、書けるんじゃないのかな、女の気持ちが」
 足を組み、尊大な態度で殊勝なことを言う男だったのだ。今でも、たまに、昔ながらの喫茶店の窮屈な椅子を見ると彼のことを思い出す。泣かせた女たちのために女の悲しさを書き続けていた男のことを。

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