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2018年12月26日12:12

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18950532 NO2696-6 全州を出て南へ東学を追う

18950532 NO2696-6 全州を出て南へ東学を追う
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006_0020_0020_6  駐韓日本公使館記録 6巻   二. 各地東学党 征討に関する 諸報告<第一巻 第7章の後半部    (2) [東学党征討略記]

全州に入るやいなや、南の金溝(クムガン *全州の南西)に向けて追撃隊を発し、泰仁(テイン *金溝の南西・井邑郡)県で数万の東徒と激戦を開き、全くこれを打ち破った。東徒は全州城を逃げる時二隊に分れ、二方向に敗走したようだ。
全州府は二回兵火に曝された。すなわち昨年の六月頃、匪徒は初めてこの府を攻撃し韓兵がこれを防いだ時に戸数の半分は焼失した上、今回復た残りの半分もほとんどことごとく焼かれたので、全府すべてが灰燼に帰したと言って過言ではない。実に惨憺たる景況である。
城外と城内を比較すると、城外の方が多く焼かれている。近来一軒、二軒と新築されているのを見るが、これは富裕の人だけであろう。
一方城内の官舍には破損していないものは一つもない。小官は南門から入ったのだが、南門に通ずる本道の両側、その後面の通路は悉く焼かれていた。

全州より金溝(クムガン *全州と井邑の間)へは三里で、泰仁(テイン *井邑の北)県へは四里強であろう。
全州より午後二時に出発し、賊を追って金溝に到着したとき「賊は今、南の泰仁駅へ逃げた」との情報があった。直ちにまたこれを追撃し、泰仁の入口で激戦となったという。泰仁の賊はその数がすこぶる多かった。

本隊はなお全州に留まり二、三日滞在後、日本兵二中隊及び壮衛兵一大隊を泰仁に向けて出発させた。これを率いたのは森屋大尉(森尾雅一大尉・西路分進隊長か)である。

なぜ賊兵が泰仁に集まったのかその原因を考えると、もと古阜県(現・井邑市内の西)は東徒の本拠地で、古阜が本拠地となった理由は、古阜の県令はもと貪婪(どんらん)残酷を極めていたので、古阜の人民がこれを替えるようしばしば政府に乞うていたが許されなかった。遂に二百名ばかりの人民が蜂起し、竹槍・蓆旗の力によってこれを更迭させようと企てた。

東徒の巨魁・全琫準は古阜県の人である。家はもともとそれほど富んではいなかった。しかし彼は幼い時から学問を好み、一家は家産をすべて彼の学問のために供し、益々貧困に陥っていた。
二百名が蜂起したのだがその百姓一揆には統率するものがいなかった。百姓たちは遂に全琫準のもとにやって来て「ともに立ち上がってくれ。我々のために力を尽してくれ」と頼んだ。
しかし琫準はこれを斥けて聞かなかった。それでも二百名はまた頼み込んできた。ここに至って琫準はやむを得ず起って、彼らの世話人となり、書をしたためて古阜の県令を更迭することを全州府の監使に哀願すること数次。しかし遂に許されなかった。
全琫準はここにおいて始めて暴徒に加担した。これより古阜近傍の人民が悉く蜂起して琫準に応じ、ここに初めて全琫準の東学党なるものが成立したという。そのような風聞が多い。

東徒の他の巨魁・金海南(キムヘナム)は金溝の人で、全琫準は古阜の人である。そうして近傍の百姓たちは悉くこれに応じた。これが東徒がおびただしく泰仁に集った理由であり、全州から逃れてきたものたちは少なくとも六七千は古阜に来り、他の一部は万馬関(*不明。全州の南、任実の北であろう)から南原の方面に敗走した。

このため一隊はまた直ちに古阜に向い、小官は万馬関を経て南原に向った。その理由はもし万馬関を賊に押さえられた時は、非常に不利になるだけでなく、任実県の県令は初めに東学党の味方をしていた事実、先に東徒の一隊がここにあったとの事実をも探知していたので本隊はここに向かったのである。

こうして全州からは兵を二隊に別けて前進した。本隊は万馬関、一隊は泰仁に向け出発した。全州から出発した諸隊の前に茂朱(ムジュ *大田―錦山―茂朱―長水―南原と繋がる)に一枝隊を出したものは雲峰(ウンボン *南原郡雲峰面)を経て南原に、また東路の第一中隊も雲峰を経て南原に向う筈であった。

泰仁県から井邑(チョンウプ)までは山陵はそう高くないし、ところどころに平地がおおいとはいえ、全州より新洞村(全州より淳昌(スンチャン)に出る間道)方面に向かうと一帯の山脈である。また万馬関には大院君の意見で建築された関門があると嘗て聞いていたが、任実県から三里ばかりの両側の山麓が次第に狭まる所に、両側の山腹の間に谷道を塞いだ石の関門があった。すこぶる堅牢である。
賊がこの杜谷の山中に遁走したとすると、これを一掃するには二、三日ではうまくいきそうもない要害である。幸いに積雪が深く、寒威が厳しいことと糧食に窮しているため遂にこの山には入らなかったと考えた。
泰仁(テイン *井邑郡)県方面は井邑川などで賊と戦ったが、そこから兵を二隊に分かち、一つは長城(ちゃんそん *光州市の北西)にむかい、今一つは興徳(フンドク *井邑の西の海岸)から南下して霊光(ヨングァン)に向った。そして小官の率いる本隊は任実県(イムシル県  *全州と南原の中間。泰仁の東方)に入った。



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