思い出すのが、S師。
霊験あらたかな人で、コアな信者が多くいました。
真言宗の某宗派の僧都でありながら、勤行次第を書き換えるなど、主体的に考えて佛に仕えてた人です。私の二十代のころの友人です。
S師は、惜しいことに病没しましたが、
彼が自殺を肯定していたことは、妙に心に残っています。
その理由はどこにあるか。
これが、彼から聞き残した重大事の一つです。
タブーがいろいろあります。
たとえば、女性のコミュニケーション能力や、同和地区の産業について研究するのは、かなり勇気がいることだと思います。もちろん、研究はありますが、スルーされている印象です。
同様に、「消極的安楽死」などという言葉で隠蔽されていますが、それを自殺と言い換えるのは、勇気が要ります。
当事者以外の人の事情で、物事が決まることは多いです。
たとえば、中絶の月齢制限。
これは、倫理的観点とされていますが、
中絶を執刀する医師の罪悪感の問題も、絡んでいるようです。
タブーを破って、自殺や安楽死やり放題になることを肯定するわけではありません。
しかし、世間や学会の議論の不徹底(しかも保身目的の)によって、人が、自分の死に方を選べずに死ぬことは、とてもじゃないですが、肯定できません。
■がん緩和ケア、充実図るが…患者4割、死の前に苦痛
(朝日新聞デジタル - 12月26日 00:49)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5434089
今、興味を持っているのは、観念と自分の本体(他に言葉が見つかりませんから、便宜上、こう置きます)との関係です。
恐らく、自分たちがそれを佛教的に考えられる最後の世代だと思います。
だから、友人と共同研究することを企画しています。
曹洞五位と相山五行
主人公と十牛圖
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