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2018年08月09日11:11

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【1998海の日の連休】三度目の礼文島と美瑛

過去の旅を次々に振り返って当時の日記に基づき微かな記憶も追加して紀行文をしたためています。関西研究学研都市の研究所に出向して三ヶ月後の海の日の連休に、約2年ぶりの北海道旅行に三泊四日で出かけた思い出です。最後まで馴染めずパワハラにも晒されて生きた心地のしなかった四日市の事業所から、横浜の研究所に戻る代わりに逆方向の関西への左遷同様の異動だったのですが、本格的な関西暮らしと自由な雰囲気の研究所に馴染んで伸び伸びとした気分を味わっている生活でした。7月20日が休日になったのは1996年からだそうですが、海の日の連休を旅行に使ったのは気楽な会社生活を取り戻したこの年が初めてでした。

7月7日は京都府相楽郡木津町の七夕祭りに研究所が参加。地球温暖化を食い止めるための新しいエネルギー源の探索や二酸化炭素の削減のテーマに取り組んでいる研究所だったので、おみこしも地球を模って作成されたもの。私と同じような企業からの出向者、ポスドクの研究員、中国や韓国からの留学生など多彩なメンバーで、普段から京都弁で仕事をしている地元採用の女子職員に団扇で扇いでもらいながら、日本が妙に強調されて描かれた地球儀(資源保護を考慮して廃材から作成されたらしい)を担いで市役所前の通りを行進しました。参加メンバーによる打ち上げや、職場の宴会が続くうちに関西の夏も暑さを増していました。

関西に来てからの一人旅は二回目。GWに車で九州を回って以来です。本来のバックパッカースタイルの旅は四日市に暮らしていた1996年の夏の一週間を超える北海道旅行以来。仕事や将来の不安が雄大な北海道の景色の感動に水を差した二年前の旅行、今回は自由を取り戻した解放感に浸りながら、夏休みを先取りした短い旅を堪能しようとしたのでした。

出発は7月18日。起床は午前6時頃。三年前の大雪山、四年前の礼文島の旅で知り合った仲間の皆さんへ旅先からハガキを出すべく宛名書きと切手を準備しました。消印と内容だけが旅先からのお便りの証拠となります。稚内行きの便は関西空港11:25発でしたので、奈良を朝8時に出発しても余裕がありました。近鉄を難波で南海の特急に乗り継いで関西空港へ向かいました。行きの便からの景色は、若狭湾、福井から能登半島まで見渡し、佐渡ヶ島の形をはっきりと確認し、男鹿半島と八郎潟に続いて、岩木山と弘前市の全景を見渡したときは懐かしさも広がりました。窓からの景色だけで10枚も写真を撮りました。

稚内到着は13:30ころ。すぐにバスに乗り継いで港へ向かいました。北海道旅行は素敵ですねと隣の客に話しかけられました。気温20度で涼しいばかりか少し肌寒いくらいでした。港は利尻・礼文を目指すツアー客でごった返しています。礼文島への船は混雑していました。出発前にサッポロクラシックを大きなコップで一杯飲み干しました。乗船するなり、四年前の8時間コースのリーダーでその後もメンバーの同窓会で何度もお会いしている多田さんに再会。また桃岩荘の「大会」でいつも見かけるジローさんにも会いました。いつもラフで自由な格好から「AD」と呼ばれている男も靴ひもを結ばないまま船に乗り込みました。ひとり旅で北海道に渡ったつもりが、あっという間に桃岩荘のリピーターが次々に集結して甲板の上での同窓会と成り果てました。普段の生活で嫌なことがあって気晴らしに旅に出た女性などもいるようです。旅先での女性との出会いを求めて何ごとか呟いてサカリのついた猫みたいにギラギラした雰囲気を漂わせた男もいます。

礼文島の香深港までは海が穏やかで平和な時間の内に「出会い」への期待を高めました。色白でグラマーな若い女性が飛び込みで桃岩荘に宿泊を申し込んでいます。仕事のストレスから衝動的に旅に出た富良野の看護師さんでした。桃岩荘ユースホステルの名物、ブルーサンダー号の荷台での送迎はホステラーが多くて3バッチに及びました。桃岩荘YHの食事に期待はしていませんでしたが、18日の夕食はかなり良い方で固形燃料のついた牛肉と野菜まで付いて有名観光地の団体旅行の食事に近いレベルでした。昔はニシン番屋だった宿の屋根裏に番号を振られた寝床をあてがわれましたが、蒲団がきれいだし涼しいので、夜も快適によく眠れました。

食事後のミーティングが桃岩荘YHの名物です。前半の「島案内」にはおそらく普通の民宿かホテルにあぶれて「若者の安宿」に紛れ込んだに違いない熟年女性のグループが混じって、ヘルパーさんの面白おかしい説明に真面目にうなずきながら聞き入っていました。北海道の夏の本当の見ごろは8月の盆休みでは遅いので、海の日の連休に旅行できるのは幸いと思ったのですが、すでにレブンアツモリソウなどの花は終わっているそうです。「内地」での高山植物が海を見下ろす断崖に一斉に咲き誇るのは6月で見られるのは限られた旅人だけのようです。ミーティングの後半はヘルパーのギター伴奏で桃岩荘のオリジナルソングを中心に歌って踊るのですが、さすがに熟年の女性たちは姿を消して「桃岩教」の信者とそれに引き込まれた旅人との熱い時間が続きました。

7月19日の天候はまずまずでした。桃組、岩組、アホ組にそれぞれ17〜18名にグループ分け。多田さん、ジローさんともう一人がそれぞれの組のリーダーを務めました。1994年以来毎年桃岩荘に宿泊して8時間コースのリーダーを務めている多田さんは、「桃組」のリーダーになることにこだわりがあるようです。3回目の参加の私は4年前と同じく「桃組」に入って多田さんについていくことに決めました。

最北端の売店で牛乳を買って最北端のトイレの前で並んで飲んでいる写真が残っています。「最北限の地スコトン岬」の札の回りでそれぞれのグループのメンバーで記念撮影、アナログだった写真に刻まれた撮影時間は7:05と読めました。行きにバスの中で隣り合わせた岐阜の女の子(保母さん、21〜23歳?)S野さんとお話しを続けながら歩きました。すごくハスキーな声ですが旅行の話、スポーツの話など話題は尽きませんでした。その他、東京出身で信州大から筑波大の大学院に進学して環境科学を学んでいる女子学生の白鳥さん、千葉出身で銀行を辞めたばかりの女の子(ダイビング好きで日に焼けている)、名古屋の女性二人組、北海道の丸々と太った男子高校生(バタフライナイフを所持していました)、桃岩荘のリピーターの数人、また村長(酋長?)というあだ名の男と付き合いの長い彼女とのおそらく30代同士のカップルなど、和やかな雰囲気でのハイキングでした。

礼文島の花の盛りは6月なのでアップダウンの激しい前半の丘の登り降りで見る花がしぼみかけている風景は二年前、四年前の8月に参加した時と変わりません。色あせつつある花にも秋を先取りする魅力を感じます。丘の上の黄色と紫の花に囲まれてピースサインをしているS野さんの写真を撮りました。断崖の上から見下ろす紺色に透き通った日本海や昆布を干している風景は以前参加した時と同じでした。

8時間コースは後半の宇遠内以南は海岸の危なっかしい岩場を渡るもので、そこで手を取り合って助けたりする行為が「愛とロマンの8時間コース」の謂れだったりしたのですが、最近、無謀な旅人が悪天候の中、単独行動で怪我をして礼文町を訴えた事件があって以来、海の岩場は通行禁止となって8時間コースも変更せざるを得なくなりました。

朝方は涼しかったのがじきに暑くなり日陰が恋しくなりました。写真に残る時刻から昼食時間は午後1時頃でした。ここで参加メンバーの自己紹介。8時間コースは辛いけれどゴールにたどり着いたら楽しい思い出に変わってしまうので、懲りずにまた参加した、こんなにつらかったとは思わなかったという正直な感想をお話ししました。4年前は茨城県民、研究所で社内失業に近い状態、2年前は四日市の事業所でパワハラに晒されて流刑者のような生活、今回は奈良県民、関西研究学研都市で自由な伸び伸びとした研究生活と、三度とも異なるバックグラウンドで旅をしていることは、さすがに心の中に留めて黙って旅を満喫するより他ありません。

岩組リーダーのジローさんから提案。京都の色白の女性が疲労から貧血気味になって歩くのがつらくなったので、指定された山越えの長い道を行く代わりに、従来の海沿いの道の方が近道だからそちらへ変更しないかと言うもの。故障者を早く送り届けるには通行禁止の道を行くのもやむを得ないのではという提案に一度は全員が賛成しかけたのですが、歩きの再開後間もなく筑波大の大学院生の白鳥さんからの意見表明で立ち止まりました。海沿いの道を行っても事故は起こらないだろうけれど、禁を破ることは今まで大切にしてきたユースホステルの行事の存続も危うくするものではないか?という意見。良識的判断に従って正規のコースを歩くことに決定しました。

まもなく海岸までS字型に一気に降りる急な山道になりました。舗装などない土がむき出しの下り坂で手すり代わりのロープが張ってあり、木製の階段もありますが腐りかけて足元のおぼつかなさは変わりません。そんな道ですが土煙をあげながら元気に勢いよく下っていくのが桃岩荘のホステラーでした。土埃の舞う坂道ですが道端には「内地」では高山植物であろう可憐な花や海風に耐えられる厚手の葉に支えられた黄色い花など咲いていて夏を満喫しているようです。

海岸沿いまで降りて漁師小屋が並ぶあたりで一度休憩(トイレ休憩も可能)。この先は従来コースでは海岸沿いの難所、コースが変更された今は峠越えの山道が待っています。各グループで漁師小屋をバックに記念撮影したら干している昆布も一緒に写り込んでいました。

シラカバに囲まれた礼文林道の雰囲気は良いけれどアップダウンがかなりあってきつい道のりで、危険な海岸沿いを選択したくなった気持ちも分かりました。足がクタクタを通り越して痛みが走ってきました。Tシャツを絞るとポタポタと汗がしたたり落ちました。リピーターの一人が水だけでなく桃の缶詰まで携行していたのに助けられたりしました。坂を降りたあたりで各組が休憩。遅れてやってきた組がカラ元気を出して手を振るのを拍手で迎えてねぎらう風景の写真も残っています。

従来の海岸沿いの道だったら「地蔵岩」がゴール、そこの売店でビールとウニを買って乾杯するのを楽しみにしていたのですが、礼文林道を越えてきたゴールには何もありません。それを見越して途中の店で買ってぬるくなったビールで一応乾杯しました。レブンウスユキソウの群落が近かったので花の写真を撮る楽しみには恵まれました。日本海に沈もうとする夕日はまん丸に浮かんでいました。

桃岩荘のスタッフに「ただいま!」の挨拶だけでは物足りないとリピーターの一人が提案 し、全員が一列に並んで「クワガタの物真似」をしましたが大してウケません。昼休みのジョギングで蓄えた体力も150%使い切って借金ができたくらいの疲労感でした。階段を登るのもやっとの思いでしたが、歌って踊るミーティングには参加したのは気分がハイになっていたからでした。

20日の朝は8:45の稚内行きの船に決めて大人数での出発でした。朝食後は当時すでに珍しい皿洗いがありました。名古屋出身の色白のスリムな美人と一緒に作業。3月まで四日市に2年暮らしていたことを話したら、子供の頃、千代崎(四日市の南)の海へよく海水浴に行ったそうです。会社の研修所の目の前の汚染されまくった灰色の海だった印象しかないのですが、汚い海で泳いだ子がこんなきれいなお姉さんに成長したのは信じられません。

桃岩荘の玄関ではヘルパーのギターでまだ出発しない人がみんなで歌っての見送り、宿の名前になった桃岩や誰がみても「猫」にしか見えない猫岩に別れを告げて、故障者とライダー以外は香深港まで1時間歩いて向かうのがYHのしきたりです。前日の疲れが取れずに「桃岩タイムトンネル」までの登り道も、林道に入っての一歩一歩も足に応えました。

香深港での見送りもいつにもまして盛大でした。満員の船でデッキもごった返して人をかき分けないと港で見送ってくれている皆さんの姿を眺められません。他のお客さんも桃岩荘のスタッフや残ったホステラーによる歌って踊っての見送りを見て楽しんでいました。帰りの船旅も海が穏やかでした。甲板では宴会や芸の披露が始まりました。ライダーの一人は「UFOがやって来た!えらやっちゃ!」と騒いで踊りまわる遊びを先導しました。今回の旅の「マドンナ」だったS野さんがカモメに餌をやる姿をカメラにうまく収めました。行きの船で旅の出会いを期待していたギラギラした男は、今回の桃岩荘の二泊ではステキな出会いはなかった様子でしたが、富良野の看護婦さんに頼んで船の舳先で「タイタニック」の有名なシーンの真似をさせてもらってご満悦でした。

稚内ではホステラーのたまり場らしい喫茶店(お天気屋)に寄って昼食。急行「サロベツ」は混んでいたけれど幸い座って行けました。桃岩荘の常連ホステラーの田代君がビールと北海シマエビを買ってきたので宴会が続きました。田代君は列車内で携帯電話を持って盛んに旅仲間と連絡を取って情報交換に暇がありません。スマホの登場する前の時代、彼の使用している携帯電話は10cmくらいの長く太いアンテナが伸びている機種でおそらく当時の高感度の最新機種だったに違いありません。旭川までの長い車中、前日の疲れを癒すためかなり眠りましたが、元気な高校生と大学院生の白鳥さん、それに「31歳のオヤジ」を自称する男とのやり取りも楽しい道中の雰囲気を醸し出していました。名寄駅での停車時間が長かったので外の空気を吸いにでかけたら、白鳥さんとのツーショット写真を撮影してくれました。

旭川の到着したのは17時ころ。桃岩荘に泊まって「非日常」の世界に連れていかれた後、社会復帰の準備に旭川に寄って興奮を冷ますという構図ができあがっていました。当初の予定では美瑛をのんびり旅するつもりでしたが、美瑛のユースホステルは、以前宿泊したリバティーYHもポテトの丘YHも満室だったので、旭川YHを予約していました。ユースに到着したのは18時頃、桃岩荘のように先に到着したホステラーが一斉に「おかえりなさい!」と出迎えるなんてことはあるはずもなく、近代的な大きなユースですが居室にこもっている宿泊者が大部分のようで静かでした。

ユースの夕食はジャガイモのカレー煮にハンバーグ、朝食はバイキング形式で夕張メロンも付いて豪華でした。食事の席は九州出身の女の子(川崎に住んでいる)、広島のバイクの女性が同席で旅の話もできました。夕食後に居室に戻ったら、ユースホステルの使い方を知らない若い男女グループがドラマ(観月ありさと瀬戸朝香が共演)を見ていました。ユースは男女別相部屋なのでドラマを見るためでも女性が男性の部屋に入るのは規則違反ですが、サークルのノリで寛いでいる人たちを追い出すのも心苦しく、だからと言って仲間に入るわけにも行かず、居たたまれないので部屋を出て、ロビーのテーブルで旅仲間へのお便りのハガキを書いて過ごすことにしました。

21日は8:45ころに出発。旭川発9:26の列車で美瑛着は10:00。レンタサイクルで美瑛の丘を回ることにしました。4時間しか時間がないのでレンタサイクルの店のお兄さんから説明された通りのコースをこなすだけにしました。美瑛を訪れたのは1995年9月、1996年8月に続いて三度目でしたが、すべて快晴で恵まれています。花盛りの新栄の丘で記念撮影に興じている人も大勢いましたが、その先のラベンダーも満開で見頃を迎えていました。ラベンダーと言えば富良野が有名ですが、この頃には大部分が商品として刈り取られてしまっているに違いありません。蝶がたくさん舞い、ミツバチの羽音もさかんに聞こえてきました。ラベンダーの香りのハチミツも味わえそうでした。

初めて美瑛を訪れた2年前は9月で刈り取られた畑にコスモスの花が揺れる風景でした。前回の2年前は干し草のタワラが至る所に転がっている風景でした。今回は白い花の咲くジャガイモ畑や収穫を前にした金色に輝く春小麦の畑など、過去2回と異なる風景を味わえたのが収穫でした。拓真館はバスで訪れる観光客でごった返していましたが、周りのシラカバの林を散策する人は少なくて落ち着いていました。拓真館の近くにも広大なラベンダー畑が広がって、隣り合ったポピー畑と共に豊かな色彩を繰り広げていました。

短い時間でしたが満足感一杯で予定より早く13:30に美瑛駅に戻ってきました。遅めの昼食は旭川駅のお馴染み&お気に入りのラーメン屋「蜂屋」にて。800円のチャーシュー麵。一口目には美味しいとは思えない独特の魚臭さのあるスープも食べ続けるうちに体に馴染んでとうとう飲み干してしまうのも毎回のことでした。

特急と快速を乗り継いで札幌駅は素通りして千歳空港に着いたのが16時半。職場へのお土産に六花亭の「大平原」を購入。夕食は2500円のウニ丼。搭乗する直前に北海道の名残にサッポロクラシックを特大のコップで飲み干しました。帰りの便も窓側でしたが、外の景色はほとんど雲ばかりの内に日が暮れていきました。時折、下界に覗く宝石をちりばめたような夜景がどこの街なのかも判明しませんでした。関西空港に到着したのは8時半でした。北海道土産の大平原は好評で、庶務の女性が総務部におすそ分けしたら、人事の新人の佳名子さん(兵庫県出身、同志社大学卒)がわざわざお礼を言いにやってきて北海道旅行の話もいろいろ聞きたがりました。

8時間コースを一緒に歩いた仲間の同窓会(桃組と岩組合同)が新宿であったのは9月上旬。土曜日の昼からのジョイポリスでの第一部、夜の宴会の両方に奈良から駆けつけて参加しました。昼の部は栃木から来た大橋さんの他は男6人。埼京線の車掌さんの桜井氏は腹ごしらえ時からエッチなギャグを飛ばして絶好調でした。数々のアトラクションの中でも「ワイルドリバー」は前後左右に座席が揺れているだけなのに襲いかかる激流の画面が恐怖を呼び、案内人の口上も危なっかしい漕ぎ手であることを自慢して恐怖を倍加し、桜井氏は下手なジェットコースターよりよっぽど怖い!と言いました。この他、ラリー、自転車、ボブスレーと挑戦、ラリーはまっすぐ進めずに壁に激突しまくりで苦労し、自転車はスピードに振り落とされるような気分になって文字通り手に汗を握りました。

夜の部は17:30から「魚屋一丁」にて。一緒に礼文島を歩いたメンバーが女性7名を含めて10数人が集合。名古屋と北海道からの参加もありました。テーブルに料理が並びきれないほど、タラバガニさえ余ったのはもったいないことでした。海の日の旅の後、8月になってもまた憑かれたように北海道を旅していたのは知床と釧路へ行ってきた私だけではなく、向こうで旅仲間の知り合いに会ったという報告さえありました。出席できなかった人へ寄せ書き。桃組サブリーダーの女性(名古屋)はニュージーランドへ旅行中と聞きました。岩組サブリーダーの色っぽい女性は富良野出身の看護婦さんだったという話もここで明かされました。

二次会は歌舞伎町のカラオケボックスへ。桃岩荘の歌って踊るミーティングの締めは、昭和半ばのアニメの主題歌など(月光仮面、エイトマン、サザエさん、およげたいやきくん他)に合わせてみんなで輪になって振り付きで踊る「フルコース」となるのですが、カラオケのレパートリーに入っている曲もありました。桃組リーダーの多田さんはフルコースの曲目を見つけてはリクエストし、古いアニメの映像が流れるのがみんなにウケました。8時間コースを歩き終えた時、日本海が夕日に沈むのを眺めながら歌う吉田拓郎の「落陽」やミーティングの締めや港での見送りで歌う「遠い世界に」もありました。キャンディーズが好きだというジローさんの年代も大体わかりました。

終電が気になるメンバーのため一旦解散。10時半に別れて10:38の快速列車に乗り、11:00の急行「銀河」に間に合いました。およそ三年ぶりの寝台列車で多少体が痛くなりましたが、まずまず良く寝られました。

桃岩荘は6月から9月のみの営業ですが、10月に東京大会(代々木公園)、11月に京都大会(円山公園)という夏に一緒に歩いた仲間やかつての旅仲間との再会を楽しむイベントがあり、歌って踊るミーティングも再現します。東京大会にはまた新幹線で駆けつけて参加して、多田さん、ジローさん他、4年前に一緒にと歩いたA原君(その後司法試験に合格して弁護士になる)、8月にラウス登山でご一緒した川崎さんとも再会しました。地元のつもりの京都での大会に参加したら、締めの鴨川べりでの「フルコース」(現在は川に入ることは禁止)を見物中に北海道の高校生に再会!修学旅行中の自由時間に見物に来たそうです。その後、白鳥さんから研修先の北海道で高校生にあったという連絡がありました。旅の出会いの余韻が秋になっても続いていたのが20世紀終わりの差し迫った日々でした。

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