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2018年03月21日10:34

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存在、情報、知識の形而上学のために

 三大噺ではないが、物質、情報、知識はいつでもどこにでも登場し、しかも三対になった語彙としてよく使われる。真、善、美と比べても遜色がないほどにその範囲は広い。並べて書くと、これら三つの概念は常に密接な関係をもっているかのようについ見えてしまう。しかし、実は三者三様で、それぞれどのような内容をもつのかと改めて見直せば、それぞれ独立に時代と共に目まぐるしく変わってきた歴史を持っている。三つの概念が互いに連携する仕方で扱われてきたのであれば、歴史的変遷の経緯はスッキリ整理できるのだが、実際は複雑怪奇極まりないのである。歴史的には物質が最初に注目を浴び、ギリシャの自然哲学の主題になった。「この世界は何からできているか」という最初の哲学的問いの解答が基本的な物質(水、土、空気、火など)だった。その後、知識が意識される内容として集中して研究され、関心の的になるのは、デカルトの哲学であり、カントはそれをさらに主役の座に押し上げ、存在論と対立するかのような認識論が生まれた。情報はボルツマンの統計力学以来脚光を浴び出し、シャノンがその数学的な概念を確立した。それは何と20世紀に入ってからのことだった。三つの概念の誕生は時を十分に隔てた、独立したものだったのである。これだけでも、例えば、三つの概念の関係は何かについて、19世紀までの哲学者には研究できないどころか、思いつくことさえできない事柄であることを意味している。三つの概念の関係を知ることができるのは20世紀以降のことなのである。だから、真善美がギリシャ時代以来ずっと議論されてきたこととは好対照なのが、物質、情報、知識の3対なのである。
 さて、ここまでの話では、タイトルにある「存在」は登場せず、「物質」が使われ、物質の方が叙述にしっくり合っているように見える。そして、これが常識になっているのだが、ここには大きな誤解があるように思われる。それを質せば、タイトルにある「存在、生命、人間」が正しい3対で、「物質、情報、知識」は異なる分類を混ぜ合わせた3対に過ぎないのである。
 そこで、それらの間の関係を見直すことにしよう。対象が持続するための主要な三つの様式が、存在、情報、知識である。このように表現したとき、存在論、情報論、知識論といったより常識的な表現が気になり出す。そこで、次のような表現について見比べていただきたい。

存在は物質の持続のための様式である。
情報は生き物の持続のための様式である。
知識は人間の持続のための様式である。
(情報はコピーすること、知識は知ったものというより、知ることを意味していると理解した方がいいだろう。)

存在、情報、知識では取り付く島もない表現で、お題目にしか過ぎない。より具体的な謂い方となれば、カッコ内のコメントを生かして、存在は「…がある」、情報は「…を真似る」、知識は「…である」とでもなるのではないか。つまり、「私の心身があり、私はそれを祖先から受け継ぎ、私は人間である」という何の変哲もない表現が三大噺の表現例になっているのである。
 さらに、ここに時間的、空間的な変化が加味されると、次のようになる。

存在は物質の持続と変化のための様式である。
情報は生き物の持続と変化のための様式である。
知識は人間の持続と変化のための様式である。

存在か認識(知識)かなどという論争が盛んだった時代があり、未だにいずれがより基本的なのかという疑問がよく出される。存在とそれを知ることがいつもペアになって受け取られている習慣があるが、同等な仕方で取り上げられ出すのは随分と新しいのである。生き物の存在は「ある」だけでは埒が明かない。世代交代を繰り返し、変化していく中での持続性は存在し続ける物質によってではなく、コピーされ続ける情報によって維持される。
 不変性に頼る物質では生き物の持続を支えることができない。複数の要素から合成されたものは壊れるという運命をもち、それを克服して持続するためには物質とは異なる新機軸が必要で、それが遺伝子による複製だった。生き物は同じものをコピーすることによって持続するという手段をとったのである。何が複製されるか、コピーされるかと言えば、それが情報である。さらに、文化レベルになると、知識がコピーされることになるが、それは教育によって実行される。だから、知識は情報の一タイプだと考えることができる。
 物質は世界の実質であり、その物質を再生する驚くべき手段がコピー、それも物質を直接再生するのではなく、情報をコピーするのである。情報の文化進化レベルでのコピーを支えるのが知識である。物質の世界は物理学が明らかにするものだが、情報は生き物のコピーを有意味にする概念で、何をコピーするかといえば、それは情報。知識は情報の一部だが、人が世界を知る結果が知識である。
 最も根本的な「擬き」となれば、DNAの複製による世代交代である。遺伝情報のコピーによって子孫がつくられていく過程は擬きの系列的な作成過程である。私たちは祖先のコピーであり、祖先擬きなのである。私は父母の半分擬きである。「擬くこと」が生命をもつものの自己保存の方法であり、それが現在までのところうまく推移してきた。生き物から真似る、擬くことを取り去ったなら、絶滅しか残されていない。生き物にとっては擬くことが持続する方法なのである。
 正確にコピーすること、複製をつくることが不可欠なのだが、それでも時々エラーが起こる。多くの場合、エラーが起これば、子孫をつくれず、その結果絶滅しかないのだが、稀にそのエラーが有利に働く場合がある。これが「突然変異」と呼ばれて、それによって新しい情報が生き物集団に生まれ、新しい適応の可能性が出てくる。
 真似たり、コピーしたり、複製をつくったりしながら、それがうまく行かないと、時にはその失敗が後の成功につながるのである。これこそ瓢箪から駒。これが生物進化の本質の一つであることを考えると、擬きは創造性に欠ける真似事では決してなく、本当に有用な工夫なのである。「コピーこそが生き物の命」であり、生き物が物質と異なる肝心な点はコピーにある。素粒子や原子からなる物質は、それらが安定して持続するという仕方で存在することに依存しているが、生き物は遺伝子によるコピーを繰り返すことによって、物資レベルの形態や機能の不安定さを補っているのである。ずっと安定的に同じであることを持続するか、コピーを正確に繰り返して更新することによって持続するかの違いがここに見られる。この違いは現象的には実に大きいが、持続するという目標としては同じである。ここで注目したいことがある。それは、コピーの反復は物質の反復ではなく、情報の反復であることである。真似る、コピーするのは物質ではなく、情報なのである。物質概念に情報概念を加えることによって、複製やコピーが意味をもつようになり、語ることができるようになる。そして、それを司るのが遺伝子ということになる。分子遺伝学は情報概念なしには成り立たない。つまり、生命科学は物質だけでなく、情報を基本概念にしているのである。
 さらに、この生物進化の仕組みに似ているのが文化進化。この遺伝情報モデルは生命レベルだけでなく、文化レベルにまで拡張される。どこが生物進化に似ているかと言えば、伝統、文化、習慣が教育によってコピーされていく点である。遺伝子ではなく、言葉を使った教育によって過去の事柄が記録され、それらが情報としてコピーされ、伝えられていく。情報の保存と伝達の仕組みは違っても、コピーをつくるという点では「生物進化擬き」が文化進化なのである。文化レベルでの文化情報の持続となれば、遺伝子ではなくミームに担われていて、具体的には教育である。教育は正に文化レベルの情報を伝えることである。人は成長しながら「人になっていく」のだが、それを支えるのが教育であり、模倣、コピーが教育の中心にある。人は模倣する、コピーすることによって知識を学んでいくのである。
 こうして、生物、伝統、文化、習慣はいずれも擬きによって保存され、進化していくことになる。結局、進化とはとても保守的で、真似ることの反復の中でエラーが起こることを利用しての変化である。真似ることの失敗が進化につながることは、文化や習慣の場合であれば成程と納得できることである。
 コピーが生き物の本質となると、創造性や新奇性はコピーのエラーだということになる。集団内の変異はコピーが複数種類あることを意味するのだが、それが存在できるのはエラーによってである。では、本物がコピーであり、そのコピーのエラーが偽物となるのだろうか。私たちの社会での本物とは、偽物が登場して初めて出てくるものである。また、コピーされてこその本物である。真似ることから成り立つ生き物の進化系列はついにヒトに至り、無意識的に真似る、意識的に真似ることがさらに続くことになる。

 ここまでのことをまとめれば、何かの存在、何かの情報、何かの知識の「何か」にそれぞれ物質、生き物、人間を挿入することによって、現在の私たちの世界観が構成されていることがわかる。

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