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2018年02月21日00:09

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2月21日の日記

今日の出来事:1482年−足利義政が慈照寺(銀閣)を造営、1936年−天皇機関説事件:天皇機関説を唱えた美濃部達吉が右翼に襲撃され負傷、1986年−任天堂が「ファミリーコンピュータディスクシステム」を発売

今日は、足利義政が慈照寺(銀閣)を造営です。慈照寺は、京都府京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院です。本尊は釈迦如来です。室町時代後期に栄えた「東山文化」を代表する建築と庭園を有しています。室町幕府第八代将軍・足利義政が鹿苑寺(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は「銀閣」、観音殿を含めた寺院全体は「銀閣寺」として知られています。足利義政は1473年、嗣子・足利義尚に将軍職を譲り、1482年から東山の月待山麓に東山山荘の造営を始めました。この地は、「応仁の乱」で焼亡した浄土寺のあったところでした。当時は「応仁の乱」が終了した直後で、京都の経済は疲弊していましたが、足利義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていました。造営工事は足利義政の死の直前まで8年にわたって続けられましたが、自身は山荘の完成を待たずに工事開始の翌年から移り住んでいました。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(鹿苑寺)ほどではありませんが、ある程度の政治的機能を持っていました。ただし、現存する当時の建物は「銀閣」と「東求堂」のみです。1490年に死去した足利義政の菩提を弔うために、東山殿を寺に改めて相国寺の末寺として創始されたのが「慈照寺」です。1952年3月29日には庭園が特別史跡および特別名勝に指定されました。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。

次に、天皇機関説事件:天皇機関説を唱えた美濃部達吉が右翼に襲撃され負傷です。「天皇機関説」とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものです。憲法学者・美濃部達吉らが主張した学説で、「天皇主権説」などと対立しました。軍部の台頭と共に「国体明徴運動」が起こり、思想・学問の自由は圧迫されて、「天皇機関説」は国体に反するとして攻撃を受け始めました。1935年2月18日、貴族院本会議の演説で菊池武夫議員が、美濃部達吉議員の「天皇機関説」を国体に背く学説であるとして「緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆になる」とし、美濃部達吉を「学匪」、「謀叛人」と非難し、井田磐楠らと「貴衆両院有志懇談会」をつくり機関説排撃を決議しました。菊池武夫はこの前年に、足利尊氏を評価する記事を10年以上も前の同人誌に書いた、中島久万吉商工大臣を「日本の国体を弁えない」と非難して辞任に追い込みました。菊池武夫は、南北朝時代に南朝方に従った菊池氏の出身で、天皇を神聖視する陸軍の幹部でもあり、右翼団体の国本社とも関係がありました。この菊池武夫の演説をきっかけに、軍部と右翼による機関説への攻撃が激化しました。2月25日、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは拍手が起こりました。それでも議会の外では、右翼団体や在郷軍人会が上げた抗議の怒号が収まりませんでした。しかし、そうした者の中には機関説とは何たるかという事すら理解しない者が多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいました。美濃部達吉の釈明演説が新聞に掲載されると、軍部や右翼の攻撃は増幅しました。これに乗じて野党・政友会は、機関説の提唱者で当時の枢密院議長の要職にあった一木喜徳郎や、内閣法制局長官・金森徳次郎らを失脚させ、岡田啓介内閣を倒す事を目論みました。一方政府は、陸軍大臣からの要求をのみ、議会終了後に美濃部達吉を取調べる事を警察に指示し、出版法違反を理由に美濃部達吉の著書「憲法撮要」、「逐条憲法精義」、「日本国憲法ノ基本主義」の3冊を発禁処分としました。また文部省は「国体明徴訓令」を発し、これに基づいて政府は、1935年8月3日と同年10月15日の2度にわたり、「国体明徴に関する政府声明」(国体明徴声明)を出して統治権の主体が天皇に存する事を明示し、「天皇機関説」の教授を禁じました。さらに、美濃部自身も内務省警保局長・唐沢俊樹によって不敬罪で告発され、検事局で取調べを受けました。しかし、この取調べに当たった検事が美濃部達吉の著書で「天皇機関説」を学び、美濃部達吉が試験官を務めた高等試験司法科試験に合格して検事になっていました。結局、美濃部達吉は起訴猶予処分となりましたが、同年9月18日に貴族院議員を辞職しました。翌1936年2月21日には、「天皇機関説」の内容に憤った右翼暴漢の襲撃を受けて重傷を負いました。この暴漢・小田十壮は、一審で懲役8年、控訴した二審では懲役3年の判決を受けました。これは、美濃部達吉の供述から、右足に負傷したのは逃げた空き地の鉄条網を越えてからの事になっていましたが、暴漢の小田十壮が7発の弾丸を撃ちつくしたのはそれ以前であり、別人の可能性が出たからです。弁護人の林逸郎、竹上半三郎は、この疑問から警護の巡査達を喚問しましたが証言が曖昧であったため、警視庁にも当該巡査達のピストルの取寄せを求めました。しかし、警視庁は見つからぬと回答し、さらに警視庁のピストルの台帳にも見当たらぬと回答しました。やむなく帝大で美濃部達吉の体内から摘出された弾丸と、暴漢の小田十壮が犯行に使用したピストルの弾丸の旋条痕の鑑定が行われました。そして、螺旋の巻き方が違う事が判明し、暴漢・小田十壮には傷害の責任はありませんでした。美濃部達吉に銃傷を負わせた犯人は今も不明です。1937年、文部省は先の国体明徴声明を踏まえた「國體の本義」を制定して、全国の教育機関に配布しました。その内容は、「天皇機関説」は西洋思想の無批判導入であり、機関説問題は西洋思想の影響を受けた一部知識人の弊風に原因があると断じたものでした。

最後に、任天堂が「ファミリーコンピュータディスクシステム」を発売です。「ファミリーコンピュータ」の従来のゲームプログラムは、カートリッジ(ロムカセット)に内蔵されたROMに格納されていました。それに対してこの「ディスクシステム」は、「ディスクカード」と呼ばれる磁気ディスクに記録されているプログラムやデータを必要な時にメモリ上に読み込んで、ゲームプログラムを実行します。ディスクを読み取る「ディスクシステム本体 (HVC−022)」 と、ソフトウェアの情報をファミリーコンピュータ本体に供給するRAMアダプタ (HVC−023) からなり、「ファミリーコンピュータ」に接続する事でシステムを構成します。別売のACアダプタまたは単2電池6本で動作します。本体との接続は、RAMアダプタをカセット差込口にセットし、そこから延びるコードをドライブ本体に接続するという形で行われました。写真などではファミコン本体をドライブの上に乗せている場合が多いですが、必ずしもそうする必要はありませんでした。固定用の「ファミコンシステムラック」が後にハドソンから発売されました。内蔵されるRAMはプログラムデータ用が256キロビット、スプライトと背景用が64キロビットで、途中の読み込みなしに使える量は片面の半分ほどでした。ディスク読み込み装置としてのみならず、新しい機能もいくつか追加されていました。中でも、ファミコン本体では矩形波など限られた音色しか出せなかったサウンド機能のためにPWM音源が搭載され、ゲームプログラムから利用できるようになりました。ディスクカードを模したマスコットキャラクター「ディスくん」が存在し、「やればやるほど、ディスクシステム」のキャッチコピーとともにCMの最後に登場していました。後にシャープから、ファミリーコンピュータ本体とディスクシステムとを一体化させた「ツインファミコン」が発売されました。ディスクカードの書き換えサービスは2003年9月、ディスクシステム本体の修理は2007年10月をもって終了しましたが、独特の仕様、音源の良さなどから今でもマニアからは根強い人気を得ています。また、任天堂のゲーム機では初めての起動デモを採用したハードでした。ディスクカードは両面それぞれが利用でき、アクセス速度が比較的速かったのですが、トラックは1つのみでした。シーケンシャルアクセスでランダムアクセスができないため、一度のロード(セーブ)にかかる時間は一定でした。ディスクカードの容量は両面で896キロビット(112キロバイト)で、当時のロムカセットと比較すると約3倍の容量を持っていました。さらにゲームの途中のデータやハイスコアなどをディスクカードにセーブする事により、本体の電源を切った後もデータを保持できるといった事も、当時のロムカセットでは不可能な事でした。この「ディスクシステム」は当時、約450万台を売り上げました。

今日の誕生日:安倍晴明、ヌルハチ、阿南惟幾、パンチョ加賀美(元ピンキーとキラーズ)、前田吟、井上順(元ザ・スパイダース)、ハイヒールモモコ(ハイヒール)、野中英次、伊藤つかさ、ゆうたろう、つぐみ、酒井美紀、要潤、和田毅、香里奈、川嶋あい(元I WiSH)、世界(EXILE)、菅田将暉、宮崎理奈(SUPER☆GiRLS)

今日の記念日:国際母語デー、日刊新聞創刊の日、漱石の日

今日の「今日訓」:本日は、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)が言語殉教者の日にちなんで制定した国際デー「国際母語デー」です。1872年に日本初の日刊新聞「東京日日新聞(現在の毎日新聞)」が創刊した事から「日刊新聞創刊の日」、1911年に文部省が作家・夏目漱石に「文学博士」の称号を送ると伝えると、「自分に肩書きは必要ない」として博士号を辞退する旨を書いた手紙を送った事で「漱石の日」となりました。
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