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2018年01月24日08:00

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(261)

最近、昨年暮れの12月26日に発売された「Gスピリッツ」の特集「1981年8月9日以降の国際プロレス」で、本日記を書いている時期に該当する78年秋頃、国際プロレスが国内でのビジネスパートナーを6年半続けていた全日本プロレスから、新日本プロレスに「鞍替え」した理由について、マイティ井上より「吉原社長がミル・マスカラスを貸してくれ(レンタル参戦)と申し込んだところ、断られたから」という新たな証言が出て、昭和プロレスマニアの間で物議を醸しています。

国際プロレスがシリーズの目玉に据えていた外国人選手がキャンセルしてきたのは団体15年の歴史の中で多数あります。

古くは70年9月のダイナマイト・シリーズ。これに先立って国際プロレスと放映していたTBSは「あなたがプロモーター」という企画でファン投票により、呼んで欲しい外国人レスラーを募集しました。

ダントツ人気だったのがこの時点ではまだ未来日のマスカラスと「ギリシャの新星」スパイロス・アリオン。

マスカラスは68年にメキシコからロサンゼルスに転戦して来た際、送られて来た連続写真を見た桜井さんが「これは面白い!」とすぐに飛び付きました。

桜井さんの所属していた東京スポーツでも特集されましたが、桜井さんが弟のように可愛がっていた雑誌「ゴング」の編集長、竹内宏介氏に紹介。

マスカラスの写真を見て完全に魅了されてしまった竹内氏はゴング誌上でマスカラスを毎月のように特集していくことになり、「マスカラスのゴングか、ゴングのマスカラスか」と言うキャッチフレーズが出来る訳です。

ゴングはマスカラスがロサンゼルスに登場した68年3月27日にベースボールマガジン社を退職して独立した小柳幸郎、池正義らによって創業された日本スポーツ出版社から創刊されており、若干19歳でベーマガ社の「プロレス&ボクシング」の編集長を務めていた竹内氏がゴングでも編集長を務めていました。

やはり雑誌を売るためにはライバル誌との差別化が必要でゴングはマスカラスをプッシュすることにより、部数を伸ばしていきました。

桜井さんも、様々なペンネームを使い分けてゴングの執筆に参加、伝説のマスカラス「ドロップキック22連発」は桜井、竹内コンビの生み出したファンタジーではなかったかと思われます。

さて、国際プロレスが呼ぼうとしていたマスカラスは、日本プロレスと親密な関係にあったロサンゼルスを主戦場にしていた為交渉が難しく、マスカラスとアリオンの順位を最後に来て入れ替えを行い、アリオンを70年9月のダイナマイト・シリーズに初来日させることにした訳です。

しかし、アリオンにも日本プロレスの妨害の手が伸びました。日本プロレスの指令を受けた外国人ブッカーのミスター・モト(チャーリー岩本)は当時アリオンが主戦場にしていたサンフランシスコのプロモーター、ロイ・シャイアを通して「国際プロレスより高いギャラで日本プロレスが呼ぶから、契約するな」とアリオンに伝達。結果アリオンの国際プロレスへの初来日はキャンセルされ、吉原社長は赤恥をかかされてしまいました。

吉原社長はこれに対抗すべく70年10月8日、大阪府立体育会館でラッシャー木村vsドクター・デス(ムース・モロウスキー)の日本初の金網デスマッチを開催しています。

日本プロレスは翌71年2月のダイナミック・シリーズにマスカラスとアリオンを2人纏めて招聘し、国際プロレスとの力の差をプロレスファンに見せつけました。
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