15.12月20日発売号○力道山死亡から5日後の追悼試合で豊登がバディ・オースチンと対戦。(63年日本プロレス渋谷リキスポーツパレス)
平成に突入し多団体時代になってからは、クリスマス興行、大晦日興行、年越しプロレス等年中無休体制でプロレス、格闘技興行が行われていますが、昭和の時代は12月半ばを過ぎると海外遠征はありましたが毎年ある訳でもなく、各団体とも新春シリーズまでオフに入りました。
なのでこの時期になると出来事も一気に減少していきます。
そんな中やはり日本プロレス界の歴史において力道山が亡くなった63年はエポックメイキングな年であり、今後のプロレス界に大きな影響を与えたと言えます。
力道山は12月7日、浜松市体育館で年内最後の日程を終えると帰京。
翌8、日自分を冷たく見捨てた相撲界が「アメリカ巡業の為に力を貸して欲しい」と要請があって上機嫌だったか元横綱前田山の高砂親方と会談した際にしこたま酒を飲みました。
その席に猪木が呼ばれ、これまで力道山から行き過ぎた暴力的指導を受けていたのにこの日に限って高砂親方の前で力道山は猪木をべた褒め。
猪木は「いつも厳しい力道山先生に褒められた」と最初は喜んでいたものの、実は力道山は猪木を大相撲に入門させてネームバリューを上げ、有名になってから再デビューさせる案を話したともされ、後で聞かされた猪木は愕然とした、という話があります。
その後力道山は泥酔したまま予定されていたTBSラジオ「朝丘雪路ショー」に出演も泥酔状態の為収録が出来ず。そのまま赤坂のニューラテンクォーターへ繰り出しました。
ここで運命の出来事が起きました。飲んでいた力道山が小用を足しにトイレに行ったところ、暴力団住吉一家系の構成員、村田勝志と口論となり、村田はナイフで力道山の腹部を刺して逃走。
力道山は腹部から血を流した状態で気丈にも檀上に上がると「皆さん、この店には暴漢がいます。気を付けて下さい」とマイクで喋った後自力で帰宅。
帰宅後、大田区の山王病院で開腹手術を受けました。傷は小腸を通過して、肺の近くまで到達しているほど深かったですが、成功。
その後状態は一進一退を繰り返し、意識は回復しましたが、15日になって容態が急変、再手術が行われましたが腸閉塞を起こしており、午後9時50分(10時35分説もあり)、力道山は帰らぬ人となってしまいました。享年39歳。(力道山の年齢に関しては諸説あり、実際は1921年生まれの42歳であったとする説が有力)
力道山のワンマン体制だった日本プロレスは力道山が亡くなったことで、その存続を危ぶむ声が大きくなりました。
この日(12月20日)、渋谷のリキパレスでは日本テレビの生中継が予定されており、興行とテレビ中継に穴は開けられないと「追悼試合」として興行を開催。
メインイベントでは豊登がシリーズ終了後も日本に残留していたBオースチンと対戦し反則負けとなっています。
飛龍革命は力道山は原則書かないことにしています。私が生まれた63年に亡くなっていてリアルタイムでは見ておらず、ほとんどがゴングやプロレス誌、東スポ、多くの書物から得た知識であり、中には年代を得て変わっていった定説もありますので完全な受け売りになることから力道山に関する連載はしないことに致しております。
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