グランドスラムレーベルの平林直哉氏は、評論家でかつ編集者。「100バカ」という駄本も書いているようだが、主にフルトヴェングラーの復刻で精力的に仕事をしている。
確かワルターのリマスター盤があまりに無残な音で、CDをたたき割ってしまったことがあるという。
これはわかる。
再リリースの音質劣化・変質というのは、レコード会社の手抜き・無責任・芸術的見識のなさ・商業主義といったものか、もしくはオレの音を聴け的なエンジニアのエゴが感じられ、アーティストを愛する者には耐えがたい。
選択肢が増えるのはよいことだが、それしか選べないことも多いのだ。
せっかくマスターテープを持っているくせに、何をしてくれるんだということだ。
だから、フルトヴェングラーのLP板起こしが流行ったころ、グランドスラムも何枚か買っていた。
ただ、これは平林氏がいうほどはよくなかった。
バイロイト第九は、素直だが終楽章がこじんまりしていたり、1943年運命も、やはり素直だが興奮するほどではない。
MYTHOSレーベルはアメリカの富豪が道楽でコレクトしたヴィンテージ盤をビンテージ機器で起こす。デフォルメはあるが、こっちのほうがインパクトはあった。
平林氏は真正のオーディオマニアではない感じなので、LPは限界があるか。
LP起こしは流行が去った感じだが、正しくないリマスターで止まっている音源は、商品化の意味はありそうだ。
平林氏は、ふと気づけばある時期からオープンリール復刻というのに変わっている。
いったいどういうルートのものなのだろうか。
マスターテープには負けるはずだが、これは確かにいいのだ。
バイロイト第九は15種類ぐらい手元で聴いたことがあるが、たぶん一番よいのではないかと思う。まだ落ち着いて聞いていないが。
宇野氏絶賛のMYTHOS復刻もいいが、絶叫調で最後まで聴けない。
やはりテープ系のほうがデフォルメの少なさは安心ではある。
1942年、ベルリンフィルとの第九はものすごい。
さすがヒトラー絶頂期で、集団的に狂気に入っているような感じがする。
それがたまたま、第九のテンションと合致して、恐ろしい精神性の演奏になっている。
これでは、だれも勝てないのはしょうがない。違う方面の演奏をするか、録音の美音に凝るしかない。
正直ベートーヴェンはもう聴き飽きたので、ここまで刺激性が強くないと引き込まれない。
1954年、最晩年のルツェルンの第九は、3楽章の静けさが逆に引き込まれる。
最近入手したのが、EMIのウィーンフィルでのベートーヴェン全集、スタジオ録音の「運命」。
これは、最終結論的なふれこみのEMIのSACDで買い、やはりイマイチわからなかった。クライバーのほうがぜんぜんいいじゃんで終わりなのだ。
贔屓目抜きでも、なぜ、老人がクライバーより凄いというのか謎である。
ただ、昨日、DAC64を通したものものしいヘッドフォンシステムで、このオープンリール起こしで、ようやくまともに聴ける感じがした。
たぶん、いいLPで真空管でヴィンテージスピーカーで聴くと、昔の人は真価がわかったのだろう。
SACDは、なにかこじんまりした感じが気になる。アビーロードのEMIリマスター全般に感じることでもあるが。
音に漂白感もあるようだ。
大会社の高価な機材で、何かいじったのだと思う。
auditeも、よいマスターをもっているようだが、もっと加工があるかもしれない。
おお友よ、そんな響きではダメなのだ
グランドスラムのオープンリール復刻は、加工感とデフォルメの少なさで、ようやくフルトヴェングラーの実像をわからせてくれた気がする。
これをすべて収集しようと思えないのは、EMIなどが、加工の少ない音源をデータで販売するとか、ふつうにありうるからだ。
どれだけの歳月待てば
大レーベルは加工の少ない音源で再発するのだろう
友よ、その答えは風に吹かれている
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