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2017年09月03日00:58

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「教育的指導者」の限界と、体罰肯定者による論理的不整合性。

ようやく出て来たか、この記事・・。

まぁ全く、このヒノテルの態度と中身、これまでの「音楽産業内」での所作と同じでしたな。
この辺りが「音楽人」特有の“世間知らず”、その悪い部分が思い切り出たかなと言う
以外ないですな。

この記事本文には出ていないが、メディアに対し「お前らが日本の文化を壊す」旨の発言まで
しちゃったわけだ。この時点で完全にアウト。残念ながら「旧世代の残渣的」思考回路を
そのまんま広く知らしめちゃったわけだ。

どうであれ神聖な舞台で、しかも僅か中学生の子供に対する体罰を、
更には観客の前でやっちゃったわけだ。ここに何の言い訳出来る材料があるよ、と。

こんなもの、氏が活躍して来た海外で、N.Yのホールでやったらどうなるさ?
ジャズ誌のみならず、広範のメディアで一斉批判が沸き起こるのは必定だ。
「世界的トップジャズプレイヤー、本番中に子供を殴る」と。

今回は日本だろうって?バカ言っちゃいかんよ。
世界的なジャズプレイヤーだがや。この所作は簡単に海を超えるぞよ。
結果的に、何らかの理由により表座沙汰にならなかったとしたら、
それは単なる「超幸運」だったというだけの話だ。

でもって・・。
先般もどこぞやの誰かが、氏のこの内容のように
「当事者間で納得しているんだから問題ないだろう」、「わざわざメディアが取り上げたから悪い」
なんぞの物言いをしていたが・・。

ここらが根本的な問題意識の欠如たる所以で、想像力も洞察力も全く持ち合わせてない証左。

当事者が、あるいはこの件での親が受容していれば問題がないなら、
ではその真逆の結果だった場合、その時はヒノテルを批判するのか!?と。
その問いに一切答えずそれっきり。つまりは逆のケースは何ら頭の中にはないわけだ。

で、大抵は「行き過ぎた体罰はよくないが・・」という前置きをしながら守りに入る所がヤラシイ。
はっきりと、「体罰肯定論者だ」と明言すればまだ話は簡単明瞭なのだが、
そこまで“泥を被る気構え”はなく、別途逃げ道を用意しているわけだ。
ここがそもそもの薄弱性たる所以。

大体にして、行き過ぎかどうかの境目はどうやって付ける?
明確な定義付け、基準なんて付けられるか?って話。

一つのビンタでも、人によってはそれほど大層に受け止めない場合はあるし、その真逆もある。
真逆だった場合、その補完やフォローをしっかりと出来る担保はあるのか?と。
真逆だった場合、その子を体罰肯定論者しっかりと守ってやれる、擁護してやれるのか?と。
最悪の場合、自ら命を経ってしまうことさえ想定せにゃならんのが今のご時世だ。
それともその時でさえ、「弱い自分が悪いのだ」とこき下ろすか?僅か子供に対して。

ここで、明らかなる矛盾が生じるわけだ。ある人の場合は大した問題じゃないとし、
ある人の場合は行き過ぎた体罰だったとする・・。
このケースが起こり得るから、一律に制限せにゃならんわけだ。

そして何より重要な点。
本件当事者がたまたま受容したからといって、それで済む話じゃない大きな理由は、
この子の向こう側に、更にもっと多くの子供が居るってことだ。
そのことがちっとも想像出来んわけだ。

全国には表面化していない、体罰に絡むことで悩んでいる、怯えている、
精神的に参っている子供らが一定程度いて何ら不思議ない。
その子らがこの件を通して、世間が、大人社会がどう反応するかについて
触角をビンビンさせてるのだ。その内容や傾向によって、明日からの学校生活や家庭生活に、
望みを繋げられるか、それとも絶望的になるかの分水嶺にある・・

そんな想像を、無責任にこの件を矮小化させたり、体罰は場合により・・なんていう輩が
一体どれだけ想像してるか?ってことだ。だから決してこの子だけの問題じゃないんだよ。

そんでもって、メディアが取り上げたことに問題をなすりつけるような論調さえあるが・・。
逆だよ逆。こうして取り上げられ、真剣に議論されないと深刻な体罰問題は
一層改善に向かわないの。ある面では、著名な芸能・音楽人だったからこそ
クローズアップされたのでもあって、寧ろそうじゃなかったら水面下での出来事として、
多くの中で考え議論されることもなく、その分体罰問題への対応は
速度が遅いままとさえなり得る。

その点で、寧ろ「よくぞ取り上げた」とされねばならない話だ。
なんたってこれ、「れっきとしたハラスメント」ですからな。

「体罰でなければ解決されない場合がある」とか、「時に体罰は愛のムチで・・」なんてのは、
はっきり言ってその他の手法を持ち合わせていない大人らの詭弁ですからね。

でね、「昔はそうじゃなかった」論。
これもまた問題の根本を見誤る、いい加減な「日本凄いのディストピア」に似たものですわ。

昔の子供らは体罰を是としていた、強かった、世間が皆半常識としていた・・
なんてものは幻想ね。正確に言えば、参ってしまう子供らにとっての、
「駆け込み寺」が社会の・・いや、ごく小さな地域コミュニティのどこかそこかにあった・・
だからどうにか酷くへこまずに、最悪のケースに至らなかったわけだ。

その駆け込み寺は、厳しい親父さんだったらおふくろさんが、あるいは姉さんや兄さんが、
隣近所のおじさんおばさん、おじいちゃんおばあちゃん、その他の大人、
クラスメイト等の友達、駄菓子屋のおじさん・・何処かに必ずや「包摂してくれる」存在や
場所があったんだな。

あるいはそれが、ブラウン管を通した何かのヒーローであったり、
ドリフのカトちゃんだったり、大好きな歌手であったり、歌であったり、
ラジオのパーソナリティーであったり、漫画本の中であったり・・

必ずや、どこかそこかに傷つきくじける自分を包摂し、抱擁してくれるものがあった。
その場所や数が、一つだけじゃなく複数あったから、どうにかこうにか耐え得る・・
いや、巧く誤魔化しやり過ごすことがギリギリ出来ただけの話だ。

じゃあ今はどうだ?リアルな地域コミュニティは事実上瓦解してるも同然。
近所や他人はよそよそしく、面倒な話はもちろん、コミュニケーション自体余計に取らない。
他人は他人、うちはうちだ。友人達はいそいそと塾や習い事で忙しいから、
友達の悩みにも付き合ってられないし、傷を互いに舐め合ったり励ましたりする間もなく、
「しゃーねーな・・よし!野球でもやってスカッとしようぜ!」なんて場面などなくなったわけだ。

今の子供らは「孤独」なんだな。逃げ場がないの。
唯一の逃げ場、良き理解者の対象は「親」でしかない。
だから唯一の砦である親から体罰なんぞ食らったら、一気に窮地へ陥ってしまう。

あるいは、唯一の理解者を困らせてしまうわけにはいかないから、
学校での体罰や強い叱責は、それ即ち「自分の悪さ」を親に被せることになるため
明かしたくても明かせず、自分の中に閉じ込めてしまう・・

それを他で吐き出したり、別な視点で受け止めてくれる対象が無さ過ぎるわけだ。
だから行き場をなくし彷徨った挙句、命まで絶ってしまう。

つまりは、昔は幾つもの防波堤も“精神療養所”もあったからであって、
昔の子が強かったわけじゃなく、子供特有の弱さ自体は今の子と何ら変わらんのですわ。

このことに気づいてない当時の親や教師達が、「自分らの教育は間違ってない」とする。
違うよ、彼らの粗い教育の穴を、誰か彼かがひっそりと埋めてくれてたんだよ。
地域コミュニティのどこかが補填してくれてただけなんだよ。

そのコミュニティを、大人らが自ら壊しておきながら「今の子供はなんとらん」、「弱い」・・
よく言うわって話だ。どこまで無責任だっての。大人社会の総体責任だよ。
まだ未完成な子供のせいにするなっての、みっともない。

で、テルさんよぉ・・。アンタ、もう老いぼれたんだよ。
少なくとももう子供を指導するだけの能力には、
現代の子供を指導する能力には届かなくなった・・そのことを自認すべきだよ。

「親子関係に近いものがある」・・いやいや、おじいちゃんと孫だっての。
しかも包容力に欠けた頑固爺ね。自惚れなさんなっての。。

■日野皓正氏、平手打ち「問題ない」 「親子に近い関係」
(朝日新聞デジタル - 09月02日 20:53)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4747158
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