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2017年08月28日14:13

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無の思想の使い方

大分前の話だが、以前の日記で紹介した西田幾多郎の哲学は、一言でいうと「無」の思想ということになるらしい。無の思想というのは、西洋の考え方である「有」の思想に対する東洋、もしくは日本特有の考え方の標識としても受け入れられつつある。

やっぱり一神教の耶蘇教徒と万の神を信じる我々では考え方がちがうよねとか、日本文化が世界に輸出できるのは鮨やアニメだけではないぞと得意がるのもよいのだけど、それだけだと無の思想がつまらんナショナリズムやオリエンタリズムに回収されてしまう。無の思想の再評価の理由の一つは、まさにそうした偏狭なものの見方を乗り越える可能性にあるらしいのである。

そんなことで、我々は無の思想をお茶やお花のような日本固有の伝統芸能にしてしまわず、もっと一般的な効能を考えんとならんわけである。質の悪い教養主義にかぶれた人の好みを忖度すれば、個別を普遍に結びつけないとならんのである。

無の思想の意義を理解するには、まずは有の思想を理解しないとならない。哲学嫌いの私には苦手な部類の話なのであるが、西洋哲学の根本には存在論というものがある。存在論とは文字通り「存在」というものを扱う学問である。

という時点ですでに我々一般人には理解しがたい話であるが、どうも存在論で扱う「存在」とは、たとえば我々が「そこに茶碗がある」とか「私がここにいる」という意味での「存在」ではない。そうしたものは時間とともにみな潰えていく。長い時間の流れで見ると、はかない夢との区別もつかない。あってもなくてもよいものが果して存在していると言えるのか、存在するということはいずれは消えてなくなるという意味しかないのか、という諸行無常に対する恐れみたいなものが存在論の前提らしい。

もし意味のない去来のくりかえしである世界に「存在」するものがあるとしたら、それはこうしたはかない世界の向うに不変のものとして存在するはずだ。このあるのかないのかわからんような「不変のもの」を探すのが今までの西洋哲学の主要な営みなのであった。

この辺の思想史は私もまだ勉強し切れていないので端折るしかないが、この「不変なもの」はプラトンのイデア、ユダヤ・キリスト教の神などと想像されて、そうした存在と人間をつなぐものとして理性というものが想定される。近代以降は、イデアや神自体の存在に疑問符がついて、むしろこの「理性」が普遍の真理の保証者として現われてくる。この理性を使って、諸行無常に見える自然の裏に潜む不変の法則を解読してきたのが近代科学である。そうすると、この科学の力を使って、人間や人間社会そのものの存在を裏付ける不変の法則なり原理も見出せるはずだという話になってくる。人間社会をも不変の原理にもとづき設計しうるというプラトンの夢は、近代に入って社会工学という形で実現されることとなったのである。

有の思想は近代科学という非常に役に立つ学問分野を成立させたのであるが、これが人間に無批判に適用されると、しばしば非人間的な結果を生み出すという議論は、以前の日記でもたくさん紹介した。それでハイデッガーのような哲学者が新しい人間存在の哲学を再興しようとしたのであるが、こちらもまた負けずに暴力的なものになってしまった。

有の思想が、時に不寛容で暴力的になってしまう理由はいろいろあるのだが、根本的には「不変のもの」を想定すると、そうではないものの存在意義が軽視されたり否定されたりしてしまうのである。例えば、理性を人間存在の根拠にしてしまうと、理性以外の人間の能力なり感性なり欲望が余分なもの、理性の邪魔をするものとして切り捨てられてしまうし、「非理性的」な人々(女性、「蛮民」、宗教の信者など)が人間以下の扱いを受けることを正当化してしまう。また、歴史を人間の進歩の歴史とし、進歩を理性による世界の整頓事業と考えてしまうと、多くの人々の経験が歴史の生み出した余剰として無視されるようになる。

このどんどん狭く貧しくなる意味世界に近代人は生きることを余儀なくされる。人間は理性を使って自然に対する支配力を強めたのだが、それでより自由になったか、より夢とチボーを持てるようになったかというと、むしろあるのかないのかよくわからない「存在」に束縛され主体的に生きれなくなってきている。その行きつくところは近未来小説に出て来るような全体主義的な管理社会のようなものなのである。

無の思想は、こうした不変の原理や法則の存在を否定する。だから、有の思想の欠点を補うことができるとされるのである。有の思想もそれが切って捨ててしまったものもどちらもひっくるめて、この世界に意味を持つものとしてみなすような可能性を与えてくれる。たとえば、人間は楽を求めて苦をさける存在であるという有の思想に対して、無の思想は楽も苦もどちらも意味あるものとして受け容れられる。宗教というは非理性的であり、世の中が進歩すればなくなるべきものであると考える有の思想に対し、宗教的経験の意味にも目を向けさせてくれる。

こういう意味での無の思想は、世の中確固たるものなど何もないさという虚無主義や、時の流れに身をまかせてればいいのさという無責任の日和見主義とは同じではない。無の思想の「無」は、むしろ「無限」の無であり、開かれた可能性を指し示している。世間の暗黙の常識になっている「意味あるもの」と「無意味なもの」、「カンケーあるもの」と「カンケーねーもの」の垣根を低くし、また自由な存在という人間について考える一助となる大変便利な思考様式なのである。

しかし、それは東洋人、日本人に生れれば知らず知らずの身につけている無言の哲学などというものではない。無の思想は今日の西洋人のみならず日本人にとっても、まだまだ何者であるかわからん他者なのであり、だからこそ希望をもたらしてくれる「来訪者」なのである。たとえ天誅がこわくなくとも、これを「客人」として鄭重にもてなさない手はない。

こう考えなおすと、古くさい西洋・東洋二元論に与してナショナリズム昂揚の道具として使うだけではもったいない無の思想の使い道を、いろいろと考える途が開けると思うのである。
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