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2017年06月29日19:45

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公益とは・・。

もうかなり前のこと・・。

自社が提供する複数のコンサートに来られる障害者の中年男性がいた。
最初の頃は、某会館ホールに常備されている「車椅子専用席」を事前に購入され、
都度その座席を外して車椅子ごとその位置に。
場所は一階席の中位で、スロープの関係等もあって列の端。

いつからかその方は専用席を購入せず、二階席を購入するようになり、
付き添いの方と来場されるようになった。

某ホールにはエレベーターはなく、二階席は実質的に階段を
三階〜四階分上がらなくてはならない構造だった。

多くの観客誘導や外案内、あるいは舞台進行の段取り等などと並行して幾つも
業務を担わねばならないために、開場から幕が上がるまでは一日の中でも
最も多忙を極める時間帯だ。

そんなさなかに、このお客さんがやって来る。付き添いの方が居るとは言え一人だけだ。
当然、ケアのために手を差し伸べねばならなくなるわけで、その方を背負って階段を三階分登り、
車椅子は別な整理員に運ばせるか、または付き添いの方と二人で運び、
着席もまた抱えながら一般席へと腰を降ろさせるので、トータルでは大変重労働であった。

その方は、チケットを購入するにあたっても、電話で申し込みをした後、
郵送手段を使わずにわざわざ事務所まで出向いて代金と引き換えにやって来ており。
とある時、当時上司だった人間がその方に問うた。「なぜ車椅子席を購入しないのか」と。

すると、「あの席だと勾配が緩くて自分の姿勢だと見え難いのと、音の反響が今ひとつ良くない。
だから二階席を選ぶようになった」と。

この時、上司は特段それ以上のことを言った記憶はないのだが、
帰った後や当日の煩雑さを前にして、不満や苦言を吐くようになった。
「現にある専用席を買わず、こちらの労力を要する一般席を購入するとは。いい加減にしろ」と。
しかし、その有り様を目の当たりにして、違和感は日に日に増していった。

実際のところ、その労力たるや半端ない。当然終演後も背負って降ろさねばならなず。
限られた頭数と時間内に、一人の客にかかる労力としては、全体からしても決して小さくはない。

だが他方で、それだけのハンデを抱えながらも積極的に社会に参画しようとし、
誰しもが興じる趣味の領域で、出来るだけ同じ立ち位置で楽しもうとしている姿がある。
ましてや、自社提供による複数の公演をいつも購入してくれている「お得意様」でもある。

自社は「民間営利企業」であり、サービス業である。
一度に大多数の観客を扱わねばならない上での「公平性」と、一人や少数の要望にも耳を傾け
出来るだけ応えねばならない「サービス業」としての本分・・
その両者を如何に並列に鑑み、均衡化を図るか・・
その僅かな位置を探り具現化することが、プロとしての腕の見せ所でもあるわけで・・。
言ってみれば「その対価で」飯を食っている立場でもある。

そのお客さんは、ひいこら額に汗する我々を前にして、毎度「いつも有難う」と
言葉をかけてくださり、終演後は「良い公演で楽しかった」と笑顔を見せてくれていたが・・
その言葉で全ての苦労が報われた気がしたし、何よりも一人のお客さんによる、
そのダイレクトな反応こそが、提供している我々にとっての貴重な反応であり、
次へ繋がる、繋げるための大事な糧でもあった。

だが、上司はそれよりも仕切る我々の余計な労力や非効率性、
その他の観客ケア上で損なう労力とのバランスを前に、強い文句を口にしていたのだが、
ある時たまらず自分は食って掛かった。冗談じゃないと・・。

そうした姿勢が個人を超えて企業の体質として滲み出るようになれば、
必ずや企業評価に繋がり、信用性やあらゆるものを失いかねない。
それは単に金銭的な価値だけではなく、「プライスレス」なものだ。

バニラエアの件になぞらえるなら・・
航空運輸業という次元の異なるものでありながら、一方では「運輸サービス業」でもあり、
「民間事業体」である。無論、背景に厳格な法基準が存在しているとしても、だ。

そして他方では「主要インフラ」でもある。公益性を有している。
公益とは何か。公である以上、多数のためである一方では、
一人や少数のことを考慮・対応すべきことでもある。

健常者の目線や思考で障害者のことを考えると、どうしても抜け落ちることは往々にしてある。
だからこそ、指摘を受けたり気がついたりした時は、出来る限り柔軟性を持って
対応すべきであり、それが多様な社会、数多存在する障害者の方々との住みよい社会への
道のりであるはずだ。

企業が社会の中で営利活動を行うということは、その時点である種の「公益事業体」でもある。
ここに、行政等との大きな隔たりは「概念上」存在しない・・いや、存在してはならないもの。
何故なら、広範に対して営利を求める以上、避けては通れないからだ。

末端の現場に居ると、業務の煩雑さやあらゆる基準等を前提にして、
時として全体像が見えなくなったり、何処に業務の本分があるのかを見失ったりもする。
そうした時一番大事なのが「その人に成り代わって考えてみる」ことだ。

これだけ多くの障害者が世の中にいて、自分が明日その立場になるかもしれない可能性は、
実は大変高いものであるにもかかわらず、どうしたってそのことに気づかない、
あるいは知っていて目を伏せているのが現実だろう。

「自分がその立場ならどう思い、どう感じるだろうか・・」
これが出来るか出来ないかで、人としての所業に大きな差が生じるもの。

バニラに関してはその後の報道等を散見する限り、改善の方向にあるようなので
それはそれとして評価する必要もあるものの、もしもこのことにより対応に限界や
行き届かないのだとしたならば、それは単純な話、「運輸インフラ」としてその責にない・・
とジャッジしなきゃならないことだ。

少なくとも「先進国」の、「先進国の主要インフラ」の資質にない、と言わざるを得ない。

■車いす客に自力でタラップ上がらせる バニラ・エア謝罪
(朝日新聞デジタル - 06月28日 05:17)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4641469
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