筆者はスポーツを愛する健康で健全な青年なのだ。健康には根拠はない。通院してはいないというぐらいの根拠でしかない。しかし、健全はいいだろう。いや、健全とはどういう意味かがよく分かっていないので、ここにも根拠はない。青年というのは当然のことながら嘘だ。そのぐらいの嘘は許されていいのだろう。こっちは年寄りなんだから。
スポーツを愛するという、この愛するという部分も、かなり眉唾ものではある。
しかし、筆者もスポーツをやる。何をやるのかと言うと、昔は走っていた。何しろ、追いかけて来る人が多かったからだ。人気だったのだ。今でも、筆者が全裸で昼間の渋谷を走ればキャーキャーと騒がれることだろう。この年齢にしてそうなのだ。若い頃には深夜に走ったって追いかけられたのも納得がいこう。
今は、走っていない。走る体力と気力と面白味がなくなったからだ。それでもスポーツをやるのだ。そうだ、昔は野球をやろうとしていた。ルールが覚えられなかった。あれは確か、ファミスタで調子に乗った時だった。ファミスタをやっていて自分は野球が上手いのではないかと思ったのだ。実際、ファミスタでは、けっこう野球が出来たのだ。ルールもファミスタで覚えた。嬉々としてバッティングセンターに行って、速い球が自分に向かって来るので、これは危険だと感じて止めたのだ。筆者は頭が悪くないので、危険が察知出来るのだ。君子だから、危険なことはしないのだ。
危険でないスポーツを探したが、なかなか見つからない。危険はよくない。それに重い物を持たされるのも勘弁だ。走りたくない。ルールが細かいのも鬱陶しい。
それでも筆者はスポーツを愛している。観戦ではない。やるのだ。何かやるのだ。やろうとしているのだ。やろうとしているのだから筆者はスポーツを愛する健康で健全な好青年ということでいいのだ。だって、何よりも気持が大事なのだから。愛とはそうしたものなのだから。
ログインしてコメントを確認・投稿する