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2017年06月18日17:34

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「民主主義」と「幸福度」についての考察。〜その1〜

あるマイミクさんの欄で、ちょっとした議論をさせて頂いた。
主さんの掲げられた内容はこうだ。

「共謀罪反対集会。2年前の安保関連法と比べ、抗議する人も減って、
無力化したように見える。国民は今の国会制度に期待を持たなくなって、
抗議もしなくなってきている。」
というもので、以下のニュース記事を基に書かれた内容。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170615-00000023-asahi-soci

記事にもあるように、先の「安保法制」にあった、国会前等にあったうねりと単純比較すると、
確かに数的にも熱度としても低く見えるし、要因をあれこれと考えていけば、
その中の一つとして「今の国会制度」に関係するものを見出すことは難くないだろう。

そこで私自身による見解として挙げるのは、先ずは、

・共謀罪法案が表立って掲げられてから、採決されるまでの時間が極めて短かった。
・伴って国会審議をはじめとする、法案の中身や議論が、メディアを中心として
 巷でも充分されるには程遠かった。
・この間、「森友問題」や「加計問題」が連続したことで、尚更法案に注目されるべく余地が
 あまりにもなさ過ぎた。
・今回の国会前デモは、安保法制当時と比較して、長い期間ではなかったばかりか、
 一番大きな開催を行ったのは平日で、数万人規模が押し寄せた安保時は「日曜日」だった。

この辺りが表面的な事由で、単純な所として一番わかり易いというのと、
つぶやき文字制限の関係から一番最後の部分を代表して示したのだが・・

それはともかくとして、表面的で、かつ物理的な側面では上記の理由によって、
安保時のような大きな動きに至る前に採決されてしまったことは、
多分誰しもが感じる要因ではないかと思っている。

これがもし安保法案当時と同等の時間的余地や、メディアを中心とした識者や学者等々による、
様々な見解と議論が多く成されていればどうだったか・・
世論調査にある「充分な理解が進んでいない」等の理由が大変多いことや、
実際はテロに対する法律ではない等の瑕疵が充分に浸透していたなら、
おそらくは安保法案当時と似たようなうねりになった可能性は大いにあるだろうし、
そこに加えて森友や加計問題にある、現政府の不健全性が加わるわけだから、
相当程度のデモンストレーションに発展する余地は十分あった・・と見て取れるはず。

それとは別に・・。
安保法案時のうねりや不満があれだけあったのに無理矢理通されてしまい、庶民感情として
何ら政治に反映されないという虚脱感や徒労感が、
相応の影響として及んだであろうことも否定出来ず、これも込みで勘案する必要はある。

ここで一つの見方として、冒頭にある「国会制度」のあり方に着目し、
直接の声が反映され難い現制度のデメリットを見出すことは意義深いし、
識者論壇の中にも幾つか見受けられることからも、決して軽視出来ない域に来てることは
論を待たないだろうとも思うところ。

では現制度・・即ち、「小選挙区制」の弊害が主因だとし、それ以前にあった中選挙区制や、
比例代表制にすれば丸く収まるか、または我々の声が望むように反映されるのか・・
とりわけ安保法制や共謀罪が、どちらも否決されただろうか。
あるいは、比例代表制度であったなら、もっと健全な政治や私達の生活がましになり、
幸福な生活へと近づくのだろうか・・。

ここに、素朴な疑問やあらゆる疑念を感じる・・というか、そんなに単純な構造で、
政治や私達の生活の鍵が選挙制度に集約されるのだろうか・・?

根源的なことを突き詰めていけば際限なく広がる、政治や制度の問題・・。
やはり「民主主義とは?」とか、「政治とは?」という深くて難解なテーマに及ぶが、
なるべく簡単に紐解く上で、先ず現行にある日本の、選挙について観てみたい。

●棄権者が命運を左右する!?

戦後から・・およそ昨今の記憶にある程度の時期から観てみると、
投票率は概ね50%台からせいぜい60%を少し超えるか・・ぐらいの中で推移している。
つまり、現代日本の有権者は、政治動向や世の中の情勢がどうであろうと、
選挙を通じて政治参加をする人はおよそ半分と少しで、残りの半分近くが参加していない・・
と観ることが出来る。

これらのさらなる理由を読み解く限り、一概には言い切れないものの、
「棄権者は政治の無関心層」と引っ括めた解釈をしても、特段大袈裟でもないはず。
要は、政治選択の最終手段を行い、政治を託している人は半分少々で、
その人達によって実際の政治を選択し、政治家による行政が執り行われている・・と言える。

では小選挙区制を改めれば、私達の声が反映されるとして、棄権者の内の多くが
投票行動に出て、政治が変わる、または良くなるのか・・。

09年、自民党が下野し、民主党が政権交代を果たしたことは誰しもが記憶に残っているだろう。
あの時、制度は今と同じ「小選挙区制」だった。
因みに投票率は69%程で、戦後3番目ぐらいの、近年では稀に見る高さだった。
この理由は諸処あるものの、長きに渡る自民党政治の固着や、直近政府〜首相らによる体質等、
いい加減鬱積が溜まった所で、若い民主党による新時代の斬新さによって新しい風が吹く・・
という期待感が投票率を高めた・・といってそれほど大きな間違いはないだろう。

その政治結果は別にせよ、ここではっきり解ることは、自民党政治に拠る不満もさることながら、
民主党に拠る新しさと期待感がもたらされたことで、政治に無関心な層、
他者への依存により丸投げだった有権者を投票所に向かわせたのであり、
これは選挙制度に拠るものではなく、野党時代の民主党による活動履歴や姿を中心として、
政治家や政党、そこから発せられるマニュフェストや空気感みたいなものが
合算されたものだろう。

つまり、選挙制度如何よりも、実際の政治家や政党の資質、期待度、誠実さ、頼り甲斐・・
そうした「政治本体」如何で政治が変わる「きっかけ」はもたらされるのであって、
幾ら選挙制度が良くても、望むべく肝心の政治家や政党が乏しければ政治は変わらないし、
期待感の増加や投票行動には向かない、と言えるはずだ。

では、投票率が高く、選挙に皆が多く行けば政治は変わる、または良くなるのだろうか・・?
それもまた、そうとは言えないことは、やはり民主党による失墜が一つ示唆するものだろう。
但し、不満や懸念、危機感みたいなものを止める、緩和する等の効果手段として、
投票率が高まればそれを達成出来る可能性は大いにある。

その大きな理由は、世論調査等にある「無党派層の多さ」だ。現状、自民党支持層よりも多い。
つまりは、この無党派層の内の何割かが与党や維新ら以外に投ずれば、
例えば改憲勢力の3分の2は阻止出来たのであるし、今のような横暴な政治は、
全てではなくとも簡単に行えない可能性は少なからずあった・・と言える。

●政治無関心層の罪

具体例を一つ挙げる。少し前、こちらは北海道で行われた「補欠選挙」だ。
故・町村信孝議員の補欠選挙で、町村氏の娘婿である和田義明候補(自民党)に対し、
実質的な野党共闘策として初めて、一人の候補者を当てた戦いがあったことを
記憶されてる方も少なくないと思われるが・・。
結果は和田新人候補が辛くも逃げ切り、野党が推した小池まき候補は惜敗したが、
数字的にもかなり接戦だった。

内訳は、 和田義明 135842票 池田真紀 123517票。そして投票率は57.54%
結論から言えば「あと数%〜10%近く」も投票率が上がれば、小池候補は勝てた計算であった。

選挙運動に関する制約面としても、政党公認にない池田氏が不利な条件にもかかわらず、
ここまで接戦に持ち込めたのは、野党共闘策として相当な頑張りがあったことは
明らかだったのだが、一方では全国的にも注目を集め、たかだか補選にもかかわらず
安倍晋三直々に応援に乗り込む姿勢を見せるほど、それだけ野党共闘に脅威を感じた、
情勢分析としてかなりやばい状況だったからで・・

にもかかわらず、直近になっても尚、地元では補選があることさえ知らない有権者が少なくなく、
連日に渡り激しい選挙戦やメディアに拠る報道が続いていたにもかかわらず、
投票率は6割台にさえ届いていない。
与党一強政治が変わるか否かの試金石でもあったのに、それでも棄権者が多いという。

これは、選挙制度がもたらしたものでもなければ、それに拠る絶望感や徒労感でもなく。
単なる「政治への無関心」以外の何者でもない。
勿論、候補者自身による力量・・即ち政治的期待感や魅力が足りなかった・・ということは
多少なりともあったかもしれないが、それにしても、あの注目ぶりにもかかわらず、だ。

ここに、無関心層や棄権者による「政治変化の可能性」、その棄却が見て取れる。
折角の少ないチャンスをむざむざと捨てたのだ。制度の問題はあまり関係がない。
これを、全国衆参選挙に当て嵌めても同じような傾向となるのは明らかだろう。

よって、政治が変わるための、先ず最低条件になくてはならないことは、
何と言っても国民に拠る政治意識や関心の持ち方にあると観て間違いではないはずだ。

ここに選挙制度の如何が関与してくることは否定出来ないにしても、
もっと根源的な問題としてやはり、一人ひとりの意識による所が大きいのではないか。

●若年世代の意識改革

特に棄権者が多いのは、どの選挙情勢を観ても概ね「20〜40代」辺りだ。
“若い世代は政治に関心が低い”とか、“政治よりもっと夢中になるものがあるから”とか、
“おっさんおばさんらの、小難しい世界だしよくわからないから”とか・・
そんなざっくりとした、ふわっとした理由が長年続いている。

だからこそ、若い世代を喚起する施策を取ろうと奮闘しているし、
18歳引き下げなどにあるように、この層を掘り起こそうとする背景にも見て取れる。
しかし、それが今の所思うようには至っておらず・・。

ここをどうするかは大変難しいのだが、一つ言えるのは「政治が身近ではない」ことにあると。
「遠くの永田町で行われてること」、「大人達〜上の世代が執り行うもの」
「どうせ俺達・私達の望む政治や生活整備などしてくれない、変わらない」・・等々。

政治はどうしてもやはり「小難しい」。そして際限なく広がるややこしさも。
これを、選挙が決まってから、投票日までの僅かな期間でいきなり習得しようとしても、
あるいは選挙公報やポスター、政見放送、選挙演説だけを急に観たって、
いい大人であっても理解するのは困難なことだ。

政治は、私達の生活場面の隅々と全て繋がっている。
コンビニで買うおやつの値段の高低も、化粧品の値段も、ネットゲームの通信構築も、
学校の先生に拠る体質や学校教育の中身にも、様々な遊びの世界にも、
顔を洗う、寝起きする、食事をする、恋愛をする、結婚をする、友人と仲良くする、喧嘩する、
笑う、泣く、怒る、困る、悩む・・・全てが全て、政治と関わっている、実に身近なものだ。

このことを、如何に日常生活のあらゆる場面で、政談というほどのかしこまったものでなくとも、
家族や学校、職場、友人同士、恋人同士、夫婦間・・それぞれで気軽に出来る習慣が、
どれほどあるか否かにかかっている・・といっていいのではないか。

「政治の話をすると嫌われる、引かれてしまう・・」 
これをどう解消し、床屋政談的なことを、若年者でも当たり前のことにするか・・。

明確な答えは、残念ながら持ち得ていない。
月並みではあるが、やはり身近な学校教育で教師が、家庭環境の中で親が、
職場でなら上司や先輩が、辛抱強く積み重ね習慣化して行くほかないだろうと。

一つ、政治家や候補者のアイデア・手段として興味深い実例が最近にあった。
先の選挙による、東京都選挙区でのことだ。三宅洋平候補の選挙運動である。
型破りのスタイルで、型破りの運動をし、演説を「選挙フェス」と呼び、
彼自身のフィールドワークである音楽と合体させた試みだ。

そして、若者に対して説き伏せる演説の内容や、マニュフェストに関する説明、
そこへの求心力は、若者らに対する鼓動を呼び起こし、政治の源泉・・
即ち「身近な生活」部分に目線をおろし、無関心層にある虚脱感に刺激をもたらした。
一人ひとりの小さな力は、やがて世の中を変える、出来ると。

結果的に落選し、当選者の得た票数にはしばし及ばなかったし、
その後に拠る安倍昭恵との不可解な接触など、そこには彼の未熟性というか、
政治家としての素養という面でも不足していた、とみなされるのは不可避でもあったが、
一方では泡沫候補と揶揄され冷笑気味であったにも関わらず、
一時は有力候補者を脅かし、各候補者が相当な警戒心を向けたのも事実だ。

あのボルテージや求心力は、上の世代には通じなくても、少なくとも無関心層である
若者の多くを惹き付け、ネットでの拡大行動や、様々な運動に波及させたことは、
決して無視することの出来ない内容だった。

あれが全てとは言わないし、もっと洗練された内容に改善する余地はあったと思われるが、
しかしあの程度であっても、あれだけの得票数や脅威を与えたのだから、
候補者に拠る能力の向上や運動手法の改善によって、無関心層に対する政治求心力、
あるいは目を向けさせるための、何らかのヒントはあそこにあったと今でも強く思っている。

他方、メディアや媒体は、本来なら有力な手段の一つであるも、
もはやそこへの期待は過剰に出来る時代でもなく・・
しかも、ネット時代もあって益々「好みのものしかチョイスせず」、
生身の他者と直接的な議論を、横断的に出来ないネットツールは、
あくまで補完要素に過ぎないわけで。

結局は身近な所で、リアルに談義が溢れるようでなければならないのだろう。

そうした下地がそれなりに出来ていて、、初めて次に選挙制度やシステム、
その如何が重要となるはず。幾ら上モノ部分に手を付けようとも、
基礎がそれなりになければ成り立たない。何事も共通した原理原則だ。

短期的且つ即効性を狙っても、一瞬は機能しても永続性には中々ならないものだ。
だから、毎日の積み重ねしかなく、毎日の中で、身近な政治に繋がる全ての事に
関心を深く持つ、そして出来るだけ考えの異なる「生身の他者」と
コミュニケーションを深める・・それが最も重要な事だろう。

(その2へ続く・・。
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