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2017年05月31日11:25

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憲法前文の「に」は間違いなのか 助詞も中身も時代にそぐわず 清湖口敏

 下記は、2017.5.31 付の産経ニュース【国語逍遥(85)】です。

                       記

 日本国憲法は今月3日、「施行70周年」を迎えた。

 70周年とは大した数字だとあらためて思う。学校の創立にしろ会社の創業にしろ、70周年ともなれば各方面から祝辞がどっと寄せられるところであろう。

 この「周年」という言葉について、放送各局の用語担当者らで構成される新聞用語懇談会放送分科会は「『〜周年』は創業10周年のような記念すべき場合に使い、事故や災害のような悪い出来事の場合には原則として使わない」と決めている。周年はあくまで慶事専用の語だというのだ。

 しかし平成12年1月17日、阪神大震災の犠牲者追悼式に出席した皇太子殿下は「本日、阪神・淡路大震災から5周年を迎えるに当たり…」とお言葉を述べられた。高浜虚子の句「子の忌日妻の忌日も戈(ほこ)の秋」には「大連の吉田弧岳、亡妻三周年の忌日も内地に帰れず…」の添え書きがある。

 これらのことから周年は必ずしも慶事専用とはいえまいが、近頃の世間一般の語感が慶事に傾いているとするなら、それは時代の趨勢(すうせい)として全く無視するわけにはいかないだろう。

 されば「憲法施行70周年」はどうか。これを「めでたい」と受け止める向きには「70周年」で一向に構わないが、5月3日付の本紙1面には「憲法70歳。何がめでたい」の大活字の見出しがあった。これを見ても分かるように、憲法がかくも長い年月を一字一句たりとも改められることなく守られてきたというのは、慶事どころか凶事というほかないのである。

 この70年の間に科学技術は言うに及ばず国内外の情勢など、ありとあらゆるものが様変わりとなり、現憲法ではもはや対処できない事態に至っている。もし「周年=慶事」の見解に同じるのであれば、「憲法施行70周年」などとはゆめゆめ口にしてはならない。

 そんな憲法だから改正への要求が高まるのも当然で、中には前文の「諸国民の公正と信義に信頼して」のくだりを捉え、「信義に」の「に」は間違いだ、「を」に書き換えよと訴える声まである。元都知事の石原慎太郎さんも3日付本紙に「前文には明らかに慣用の日本語としては間違いの助詞が数多くある」「誰かに高額の金を貸す時に君に信頼して貸そうとは言わず君を信頼してのはずだろう」と書いている。

 はたして、くだんの助詞「に」は間違いなのか。

 動詞には「ニ」に続くものと「ヲ」に続くものとがある。「大声ニ驚く」の「驚く」のように「〜ニ」を主とする動詞もあれば、「山ヲ愛する」の「愛する」のように「〜ヲ」が基本の動詞もある。ニとヲの両方が使われる動詞もあって例えば、「合格の報(ニ・ヲ)喜ぶ」の「喜ぶ」、「手腕(ニ・ヲ)期待する」の「期待する」、「協力(ニ・ヲ)感謝する」の「感謝する」などがこれに相当する。他にも「触る」「耐える」「配慮する」「欠席する」などがある。

 「信頼する」は、今ではヲに続く動詞とみなされがちだが、近代では「〜ニ」の用例も珍しくはなかった。日本国語大辞典は『歩兵操典』(昭和3年)から「自己の銃剣に信頼し最後の勝利を求むることに」を引いている。

 「青空文庫」で検索すると、文芸作品にも「吾人(ごじん)はこれらの方則に信頼して」(方則について/寺田寅彦)、「人が己れの智識に信頼する、是れは人の誇りで」(潮霧(ガス)/有島武郎)、「自分の想像力に信頼しないで」(築地座の『ママ先生』/岸田國士)…と数多くの例がみられる。

 これら諸例に徴するならば「〜に信頼する」は、憲法制定の頃までは文筆家らの間でごく普通に使われていた表現ではないかと思われる。そこでこれの正誤を問われた際には「一概に間違いとは言い切れない」と答えるのが最も賢明ということにはなるだろう。

 ただ、そのように答えたうえで考えねばならないのは、今を生きる私たちにとってその語法は慣用的に容認できるか否かである。例えば泉鏡花や森鴎外、坂口安吾らが「退治する」の意で「退治る」を使っているからといって、私たちが日常の会話や文章でこれを使うのには相当の違和感が伴うだろう。「頭のよい子供」を指して「切れる子供」と言ったりすると、たとえ本来の語義にかなってはいても、意思伝達に著しい齟齬(そご)をきたそう。

 かつて「〜ヲ」と「〜ニ」の両形が併存していた「信頼する」は、戦後しばらくの間に「〜ヲ」が圧倒的優位に立ったと考えられる。逆に「〜ニ」はすっかり古びた結果、現代日本人のほとんどが奇異な言い方と捉えるようになった。

 助詞だけなら我慢もできようが、断じて我慢がならないのは、憲法の中身も同様に古び、現今の諸情勢との乖離(かいり)が激しくなったことである。このままではわが国にミサイルの照準を定める国や、尖閣諸島の奪取を狙う国などとはとても対峙(たいじ)できまい。それでもなお護憲論者は、これらの国々の「公正と信義」に信頼せよというのだろうか。

 http://www.sankei.com/column/news/170531/clm1705310006-n1.html
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