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2017年04月30日12:02

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ブリューゲルの展覧会

 東京都美術館で「ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展16世紀ネーデルラントの至宝−ボスを超えて−」が開催中。きっと連休で込み合っているのだろうと思うと、足が向かない。若い頃からずっと変わらないのだが、私には北ヨーロッパは本能的にとても異質な感じがしてならないのである、フェルメールを除いて。

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(ブリューゲル「バベルの塔」1563、ウィーン美術史博物)

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(ブリューゲル「バベルの塔」1568頃、ボイマンス美術館)

 ガリレオ、デカルト、ニュートンの科学的な系譜はとてもわかり易いと思うのだが、カントから始まるドイツの哲学となると、水彩絵具が透明水彩絵具(ウォーターカラー)から不透明水彩絵具(ガッシュ)に変わってしまう程度ではなく、水彩絵具が油絵具に変わった気がするのである。同じように世界を描いているのだが、描き方だけでなく、描く道具までまるで違うように思えてならない。絵具の違いは科学的には他愛もないものなのに、視覚的にはとても効果が大きいことを考えると、絵具の役割は途方もなく大きいのである。確か油彩はネーデルランドで確立されたのだった。
 デカルトの明晰判明な思考とヘーゲルの首尾一貫した思考は、実は似ても似つかぬもので、正に「バベルの塔」の如くに異なる言語による表現になっているだけでなく、言語の使い方まで異なっている。人の思考が如何に幅広いのかを示す例だとみることができるが、一方でいずれかが誤っているのではないかという疑いをもたせてくれる。いずれにしろ、過去の遺産としてのデカルト哲学、ヘーゲル哲学であれば、二人のいずれが正しいかはもはや哲学の問題ではなくなっている。
 このような違いは絵画にもある気がしてならない。ルネッサンスのイタリア画家たちの明晰判明な作品に比べると、北の画家たちはみな影があり、偏執的である。人間中心主義は昼間の大らかで美しい人間についてだけでなく、喧嘩を繰り返し、心の内を探り合い、夜の秘密に満ちた人間についての主張でもある。だから、北の画家の方が人間をありのままに描くという点ではより人間的なのかもしれない。

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(ラファエロ「アレクサンドリアの聖カタリナ」1507)

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(クラナッハ「正義のアレゴリー」1537)

 大人じみた分別と、暗い本質を強調する北欧の絵画はイタリアの素直で伸びやかな絵画とは異なる。両方が同じように理解できる人を私は理解できない。私にはミケランジェロやラファエロの絵画や彫刻を理解する仕方でクラナッハやブリューゲルを理解できないのである。確かに宗教画でも抽象画でもなく、人間を描くという点では共通しているのだが、それは概念的に共通しているだけで、美的な感性はまるで違っている。だから、両方を好きだという人がいたらその人は嘘つきとは言わないまでも、正直ではない気がする。
 類似のことは哲学にも言える。ロックやヒュームの経験主義的な哲学はカントから始まるドイツの観念主義的な哲学とまるで肌が合わない。だから、両方がわかるという人は信用できない。
 美術も哲学もこのような違いを冷静に見極め、統一的な試みを始めるといったことがなかった。両方とも論争や個性の重視の方が遥かに大切と思われてきた。つまり、群雄割拠こそが真の姿と考えられてきたのである。
 科学はそうではない。検証によっていずれが正しいかの決着をつけることが当たり前。それは意見の相違や好みの違いを大切にするのではなく、あくまで一つの基準を使って何が正しいかを求めるのである。
 ギリシャ以来のヨーロッパ哲学の伝統は「いずれが正しいか」の追求であり、そのための論争だった。「誰かの哲学」の研究など哲学史家や文献学者に任せておけばよい。遺産の管理は大切でゆるがせにできないのだが、それは哲学研究ではなく、歴史研究である。まして、科学研究でもない。
 決着をつけるための議論、実験、検証は新しい知識を獲得するためであり、そのために人間は努力する。科学は哲学から生まれたのではなく、本来科学も哲学も同じ事柄についての別名に過ぎないのだ。異なる名前が使われるのは歴史的な偶然でしかない。科学と哲学のどこが違うかなど議論する必要もなく、「正しく知る」ためには科学も哲学も同じなのである。科学にも哲学にも同じ知性が関わってきたのである。

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