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2017年03月05日01:32

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3月5日の日記

今日の出来事:1184年−源平合戦:粟津の戦い、1770年−ボストン虐殺事件、1932年−血盟団事件、1978年−テンポイント永眠

今日は、源平合戦:粟津の戦いです。「法住寺合戦」後、源頼朝は後白河法皇の命を受けて弟の源範頼・義経以下、傘下の東国諸将に木曽義仲討伐を命じました。「宇治川の戦い」で敗れた木曽義仲は、後白河法皇を連行して京都を脱出しようと図りましたが、六条河原で再度敗れました。「義仲四天王」の今井兼平ら、わずかの兵を連れて根拠地のある北陸への逃走を試みました。ところが近江国粟津に着いたところ、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼が率いる甲斐源氏軍と遭遇しました。ここで木曽義仲軍は潰滅し、辛うじて逃げ切った木曽義仲に従うのは今井兼平のみでした。そこで木曽義仲は覚悟して自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討死しました。これを見た今井兼平も自害し、木曽源氏勢力は崩壊しました。木曽義仲の死を知った「義仲四天王」の樋口兼光は、京へ戻る道中で源義経の軍勢に生け捕られました。木曽義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され、渋谷高重によって斬首されました。木曽義仲の嫡子・義高は源頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいましたが、逃亡を図って討たれました。こうして木曽義仲の家系は絶えました。

次に、ボストン虐殺事件です。ボストン虐殺事件は、1770年3月5日にマサチューセッツ植民地のボストンで、イギリス軍が民間人5人を射殺した事件です。当時、アメリカはイギリスの植民地でした。事件はキングストリートで始まりました。かつら製造業の若い弟子エドワード・ガーリックが、イギリス軍の士官ジョン・ゴールドフィンチ大尉に散髪代の支払いが遅れていると訴えました。ゴールドフィンチ大尉はその日に支払いを済ませていたのでしたが、ガーリックに返事をしませんでした。ガーリックは1時間後にも苦情を大きな声で訴えたので、税関の外で歩哨に立っていた兵士ヒュー・ホワイトがガーリックを呼びつけて頭を殴りました。ガーリックの仲間が叫びだすと、イギリス軍の軍曹が彼らを追い払いました。弟子達は近くにいた者達を集めて戻ってくると、歩哨に侮蔑の言葉を浴びせて雪玉や屑を投げ始めました。ホワイトは警衛部隊に応援を頼む知らせを走らせました。その日の当直トーマス・プレストン大尉は第29歩兵連隊から伍長1人と兵士6人を出動させ、自身も直ぐに現場に向かいました。暴徒は数が増え、石、棒、氷の塊を投げ続けていました。一団の水夫と造船所の職工が大きな薪を持って現れ、群衆の前面に出て兵士達に向き合いました。周りの教会の鐘が鳴ると、ボストン市民の群衆が更に大きくなり、威嚇的になりました。騒動の最中に、ヒュー・モントゴメリー兵士が氷の礫を受けて倒れました。彼はマスケット銃を空に向けて威嚇弾を放ちました。1人を除いた兵士が群衆に向けて発砲しました。無差別の銃撃で11人が被弾しました。即死は3人、数時間後に1人、2週間後に1人が死亡しました。他の6人は命を取り留めました。死者:サミュエル・グレイ、ジェームズ・コールドウェル、クリスパス・アタックス、サミュエル・メイブリック、パトリック・カー(2週間後に死亡)。事態の収拾のために翌日、イギリス軍当局はすべての軍人を町の中心部からボストン港のキャッスル・アイランド砦に移しました。事件後、プレストンと兵士たちは逮捕され、サフォーク郡地方裁判所で裁判が行われました。まず、陪審員はこの事件での射殺はプレストンの命令によって行われたものではないと判断し、プレストンを無罪としました。次いで1人の兵士が銃を全く撃たなかったという事実があったため、検察側は兵士各人の罪を証明しなければなりませんでした。この段階で、陪審員は6人の兵士を無罪とし、モントゴメリーとマシュー・キルロイの2人の二等兵を殺人で有罪としました。しかし、「聖職者の特権」というイギリス法の規定により減刑され、親指への烙印だけで終わりました。この事件でイギリス軍と植民地の民間人との間の緊張が高まり、暴動を引き起こしました。後に「アメリカ独立戦争」を引き起こすきっかけとなった事件の一つです。

その次に、血盟団事件です。血盟団事件とは、日蓮宗の僧侶である井上日召が率いた「血盟団」が起こしたテロ事件です。井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指ししてその暗殺を企て、配下の血盟団メンバーに対して「一人一殺」、「一殺多生」を指令しました。井上日召はクーデターの実行を西田税、菅波三郎らを中心とする陸軍側に持ちかけましたが、拒否されました。1932年1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議し、2月11日の「紀元節」に政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行する事を決定しました。これを藤井斉ら地方の同志に伝えるため、四元義隆が派遣されました。ところが、1月28日に「上海事変」が勃発したため、計画に参画していた海軍側の連中に戦線の勤務が命じられました。1月31日に海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、民間の古内栄司、久木田祐弘、田中邦雄が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当して「一人一殺」を決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行する事を決定しました。2月7日以降に決行とし、暗殺目標と担当者を以下のように決めました。三井財閥代表・池田成彬を古内栄司、重臣・西園寺公望を池袋正釟郎、前外務大臣・幣原喜重郎を久木田祐弘、前内閣総理大臣・若槻禮次郎を田中邦雄、貴族院議長・徳川家達を須田太郎、内大臣・牧野伸顕を四元義隆、前大蔵大臣・井上準之助を小沼正、枢密院議長・伊東巳代治を菱沼五郎、三井財閥巨頭・団琢磨を黒沢大二、内閣総理大臣・犬養毅を森憲二。1932年2月9日、東京府本郷の駒本小学校へ総選挙の応援演説のために訪れた、前大蔵大臣・井上準之助が射殺されました。その場で逮捕された実行犯は、井上日召に帰依していた茨城県那珂郡の農村出身の血盟団員・小沼正でした。暗殺実行担当者の一人、血盟団員・菱沼五郎に割り当てられた目標は、伊東巳代治でした。しかし、井上準之助の暗殺成功後、井上日召は伊東巳代治の殺害が困難になったと判断し、新たな目標として政友会幹部で元検事総長・鈴木喜三郎を割り当てました。鈴木喜三郎は、2月27日に川崎市宮前小学校の演説会に出る事が判明しました。菱沼五郎は当日に宮前小学校に行きましたが、鈴木喜三郎の演説は中止となりました。翌日、再び目標変更の指令を受け、三井財閥の中心人物で三井財閥総帥・團琢磨となりました。菱沼五郎は3月5日、日本橋の三井銀行本店玄関前で、團琢磨を短銃で射殺しました。菱沼五郎はその場で逮捕されました。警察はまもなく、2件の殺人が「血盟団」の組織的犯行である事を突き止めました。井上日召は頭山満の保護を得て捜査の手を逃れようと図りましたが、結局3月11日に自首、関係者14名が一斉に逮捕されました。小沼正は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の海軍中尉・藤井斉から入手したと自供しました。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の3名が無期懲役判決を受け、四元義隆ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下されました。その後、1940年に彼らは恩赦で出獄しました。古賀清志と中村義雄は3月13日に「血盟団」の残党を集め、橘孝三郎の「愛郷塾」を決起させました。陸軍士官候補生の一団を加えて、さらに大川周明、本間憲一郎、頭山秀三の援助を求めた上で再度陸軍の決起を促しました。そして、大集団テロを敢行する計画をたて「五・一五事件」を起こす事になります。

最後に、テンポイント永眠です。テンポイントは、1975年8月に競走馬としてデビューしました。関西のクラシック候補として注目を集め、額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれました。クラシックでは無冠に終わりましたが、5歳時に「天皇賞(春)」と「有馬記念」を優勝しました。テンポイントは1975年3月に小川厩舎に入厩しました。8月17日、函館競馬場の「新馬戦」でデビューしました。3日前に行われた調教で優れた動きを見せた事が評価され、50%近い単勝支持率を集めて1番人気に支持されました。レースでは好スタートから序盤で先頭に立つと、そのまま逃げて2着馬に10馬身の着差をつけてゴールし、優勝しました。走破タイムは函館競馬場芝1000mのコースレコードを0.5秒更新するものでした。この時のレース内容から、テンポイントは「クラシック候補」という評価を受けるようになりました。2戦目には当初10月の条件戦「りんどう特別」が予定されていましたが、発熱したため11月の条件戦「もみじ賞」に変更となりました。「もみじ賞」で、テンポイントは2着馬に9馬身の着差をつけて優勝しました。続いて、当時の関西の3歳王者決定戦「阪神3歳ステークス」に出走しました。テンポイントは単勝支持率が50%を超える1番人気に支持されました。レースでは第3コーナーを過ぎたあたりから、ハミがかからず3番手から6番手まで後退し、勝利が危ぶまれる場面もありました。しかし、第4コーナーで前方への進出を開始し、直線の半ばで先頭に立つとそのまま他の馬を引き離してゴールしました。2着馬に7馬身差を付け、同じ日に行われた古馬のオープン競走よりも速い走破タイムを記録して優勝しました。テンポイントは3戦3勝で1975年のシーズンを終え、この年の「優駿賞最優秀3歳牡馬」に選出されました。「阪神3歳ステークス」を優勝した事で、テンポイントは名実ともに関西のクラシック候補として認識されるようになりました。「東京優駿(日本ダービー)」に備えて早めに東京競馬場のコースを経験させるため、テンポイントを東京競馬場で行われる「東京4歳ステークス」に出走させ、その後に中山競馬場に滞在して「皐月賞」に臨む計画を立てました。1976年の初戦となった「東京4歳ステークス」では直線の坂を登った地点で先頭に立って優勝しましたが、それまでと異なり2着のクライムカイザーとは半馬身差の接戦となりました。続く皐月賞トライアルの「スプリングステークス」でも優勝しましたが2着馬とはクビ差の接戦でした。5戦5勝という成績でクラシック一冠目の「皐月賞」に臨む事になりました。しかし、厩務員の労働組合による「春闘」の影響でテンポイントの調整に狂いが生じました。この年の「春闘」はベースアップを巡って労働組合側と日本調教師会とが激しく対立し、厩務員側のストライキによって「皐月賞」施行予定日である4月18日の競馬開催が中止となる可能性が出ました。テンポイント陣営は、ストライキは行われないと予想してレース施行予定日の3日前に強い負荷をかける調教を行いましたが、予想に反してストライキが行われて、「皐月賞」の施行は1週間後の25日に順延されました。その後、組合と調教師会の団体交渉は長期化し、25日の開催も危ぶまれるようになりました。陣営は、今度は再度順延になると予想した上で24日に強い負荷をかける調教を行いましたが、調教を行った数時間後にクラシックだけは開催する事で合意が形成され、再び予想が裏目に出る結果となりました。これらの調整の狂いによって、テンポイントには疲労が蓄積し、苛立ちを見せるようになりました。その結果レースでは1番人気に支持されましたが、同じく無敗で臨んで来たトウショウボーイに5馬身差をつけられて2着に敗れました。次走は、年初から目標としていた「東京優駿」となりました。テンポイントは2番人気に支持されましたが、厩務員によると競走生活においてもっとも体調が悪く、勝つ事を「すっかり諦めて、かえって気楽でした」と当時を振り返っています。レースでは第3コーナーから思うように加速する事が出来ず、クライムカイザーの7着に敗れました。レース後に左前脚の剥離骨折が判明し、治療のため休養に入りました。なお、5月9日に主戦騎手の鹿戸明が京都競馬場でのレース中に落馬して、骨盤を骨折して騎乗が不可能となったため「東京優駿」では武邦彦が騎乗しました。鹿戸明がテンポイントに騎乗しなかったのは、このレースだけです。骨折の程度は軽く7月頃には治り、陣営はクラシック最終戦「菊花賞」へ向けて調整を続けました。「菊花賞」のトライアルレースであった「神戸新聞杯」と「京都新聞杯」には間に合わず、復帰初戦には「京都大賞典」が選ばれました。テンポイントの調整は調教師がレース前に「やっと出走にこぎつけた」とコメントしたように万全ではなく、人気は6番人気と低かったが優勝馬と0.1秒差の3着に健闘しました。「菊花賞」では単枠指定されたトウショウボーイとクライムカイザーに次ぐ3番人気に支持されました。このレースで鹿戸明はトウショウボーイをマークする形でレースを進め、最後の直線でトウショウボーイを交わして先頭に立ちました。トウショウボーイにはそのまま先着しましたが、内ラチ沿いを伸びてきた12番人気のグリーングラスに交わされ、2馬身半差の2着に終わりました。当時、グリーングラスの勝利はフロック視されましたが、この後に同馬はTTGの一角を形成する実力馬となりました。「菊花賞」の後、陣営は「有馬記念」への出走を決めました。レースでテンポイントは5、6番手を進みましたが、第3コーナーから第4コーナーにかけて馬群の中で前方へ進出するための進路を失い、一度加速を緩めて外へ進路をとった後に再度加速しましたが、直線で先頭に立ったトウショウボーイとの差は詰まらず、1馬身半差の2着に敗れました。「菊花賞」、「有馬記念」と続けて2着に敗れたテンポイントは、「悲運の貴公子」と呼ばれるようになりました。陣営は「天皇賞(春)」優勝を目標に据え、同レースの前に2回出走させる予定を立てました。テンポイントは、「京都記念」、「鳴尾記念」をともに着差はクビ差ながら連勝し、「天皇賞(春)」では1番人気に支持されました。レースでは序盤は5、6番手でレースを進め、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし、初の八大競走制覇を果たしました。「宝塚記念」では、テンポイントが1番人気に支持されました。しかし、レースでは逃げたトウショウボーイを2番手から追走しましたが、最後まで交わす事が出来ず、2着に敗れました。3着は、グリーングラスでした。「有馬記念」では、トウショウボーイ、グリーングラスと繰り広げたマッチレースTTGの三つ巴の戦いとして競馬史に残る名勝負の一つと言われています。このレースは、スタートからトウショウボーイが逃げましたが、すぐに馬体を合わせてかわすテンポイント、更に抜き返すトウショウボーイ、そしてまたテンポイントが抜き返すという前代未聞のマッチレースを展開しました。互いに先頭を譲らず、人馬ともに互いをライバルと認め合い、互いに負けられないと言う気骨がこの名勝負を生み出しました。そして、最後の直線でも激しい叩き合いを続けるTT両馬をピッタリとマークし、一気に猛追するグリーングラス。3頭がなだれこむようにゴール版を通過する中、先頭でゴール板を駆け抜けたのはテンポイントでした。トウショウボーイは、グリーングラスを半馬身差で何とか抑えきっての2着でした。最終的にTT両馬にGがわずかに詰め寄ったのみで、他の馬たちは全て蚊帳の外という凄まじいレース内容でした。このレースで、テンポイントは初めて宿敵・トウショウボーイを打ち負かしました。この名勝負を振り返り、トウショウボーイに騎乗していた武邦彦、テンポイントに騎乗していた鹿戸明の両騎手は「レースに負けてもいいから相手に勝つ事しか考えていなかった」と同じ旨のコメントを残しています。1978年1月に国外遠征に向けての壮行レース(第25回日本経済新春杯)中に骨折し、43日間に及ぶ治療の末に死亡しました。1975年度「優駿賞最優秀3歳牡馬」、1977年度「年度代表馬」及び「最優秀5歳以上牡馬」、1990年に中央競馬の「顕彰馬」に選出されました。

今日の誕生日:ゲラルドゥス・メルカトル、毛利敬親、周恩来、安藤百福、大杉勝男、栗原はるみ、湯原昌幸、榊原るみ、安田隆行、北条司、板谷祐三子(元セイントフォー)、ジョン・フルシアンテ(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)、原西孝幸(FUJIWARA)、菊間千乃、熊川哲也、Asami(元dos、元TRUE KiSS DESTiNATiON)、神宮司治(レミオロメン)、山田まりや、忍成修吾、松山ケンイチ、川内優輝、後藤彩(元SUPER☆GiRLS)、カブトヤマ、オペックホース、キャロルハウス、ライスシャワー、マンハッタンカフェ、シックスセンス、アストンマーチャン、キズナ、大崎ナナ、麻衣マチコ

今日の記念日:啓蟄、ミス・コンテストの日、巫女の日、珊瑚の日、産後ケアの日、安藤百福の日、スチュワーデスの日、常陸牛の日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の1つである「啓蟄」です。大地が暖まり冬眠をしていた虫が穴から出てくる頃です。「啓蟄」とは、「蟄虫啓戸(ちっちゅう こを ひらく):冬蘢りの虫が出て来る」と言う意味です。1908年に「世界美人コンクール」の日本予選として行った「良家の淑女」写真コンテストの入賞者を掲載したのが、日本の「ミス・コンテスト」の始まりとされている事から「ミス・コンテストの日」、世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」や世界初のカップめん「カップヌードル」などを発明した「インスタントラーメンの父」と呼ばれる安藤百福の誕生日を記念して「 安藤百福の日」、1931年に東京航空輸送社がに実施した日本初のスチュワーデス採用試験の結果が、この日に発表された事から「スチュワーデスの日」、1977年に「茨城県常陸牛振興協会」が設立された事から「常陸牛の日」、3と5の語呂合わせから「巫女の日」、「珊瑚の日」、「産後ケアの日」となりました。
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