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2017年03月02日00:42

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3月2日の日記

今日の出来事:1657年−明暦の大火、1672年−浄瑠璃坂の仇討、1943年−第二次世界大戦:ビスマルク海海戦、1955年−第三清徳丸襲撃事件

今日は、明暦の大火です。1657年3月2日〜3月4日にかけて、当時の江戸の大半を焼失した大火災です。「振袖火事」とも呼ばれています。この火災は、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生しました。最初の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地は、そのすべてが焼き尽くされました。この「明暦の大火」による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、「江戸の三大火」の筆頭として挙げられています。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失しました。死者は約10万人と記録されています。江戸城天守も焼失し、これ以後、再建されませんでした。最初の出火:3月2日14時頃、本郷丸山の本妙寺より出火しました。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及びました。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲となりました。2回目の出火:3月3日10時頃、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火しました。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城は天守閣を含む大半が焼失しました。3回目の出火:3月3日16時頃、麹町5丁目の在家より出火しました。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火しました。火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれて埋葬され、供養のために現在の回向院が建立されました。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助、諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注ぎました。最初の本妙寺での出火の原因は、以下のように言われています。ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をしました。その振袖の紋や柄行と同じ振袖を拵えてもらって、夫婦遊びに明け暮れました。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に菊でした。そして、恋の病に臥せったまま承応4年1月18日、17歳で亡くなりました。寺では葬儀が済むと、不受不施の仕来りによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払いました。その振袖はキノの手に渡りましたが、キノも17歳で、翌明暦2年1月18日に死亡しました。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡りましたが、同じように明暦3年1月18日に17歳で亡くなりました。イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらう事にしました。しかし、和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となりました。この「明暦の大火」は、火災としては「東京大空襲」、「関東大震災」などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものです。「ロンドン大火」、「ローマ大火」と並ぶ「世界三大大火」の一つに数えられています。しかし、この火事を教訓にし、江戸の町はさらに大発展する事になります。それまで湿原や沼だった場所を開拓(赤坂、青山、麻布、芝)、京橋沖を埋め立てて築地(元々築地とは埋め立て地と言う意味)が誕生しました。御三家の屋敷が江戸城外へ転出し、それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転しました。防備上、千住大橋のみしかなかった隅田川に橋を掛け、対岸を開拓(本所、深川)して市街地が拡大しました。この橋は「大橋」と名付けられましたが、「武蔵」と「下総」の二つの国を結ぶ橋と言う事で「両国橋」と呼ばれるようになります。こうして江戸の面積が増え、「大江戸」となり、今の東京の原型が出来上がります。防災への取り組みも行われました。火除地や延焼を遮断する防火線として「広小路」が設置されました。現在でも「上野広小路」などの地名が残っています。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われ、江戸はその後も大火に見舞われました。昔から日本人は災害があると、それを教訓にそれ以上の復興を成し遂げるのです。

次に、浄瑠璃坂の仇討です。浄瑠璃坂の仇討は、1672年に宇都宮藩を脱藩した奥平源八が、父の仇である同藩の元藩士・奥平隼人を討った事件です。「江戸三大仇討ち(元禄赤穂事件・伊賀越の仇討・浄瑠璃坂の仇討)」の一つです。発端は1668年4月13日、下野興禅寺(宇都宮市)で宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の法要で奥平内蔵允と奥平隼人の2人がささいな事から口論となり、憤慨する奥平内蔵允が奥平隼人に抜刀しました。居合わせた大身衆の同輩・兵藤玄蕃などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となりました。しかしその夜、奥平内蔵允は切腹しました(宇都宮興禅寺刃傷事件)。藩庁へは、興禅寺での刀傷から「破傷風で死去」と報告されました。藩の処分は事件から半年後に下されました。奥平隼人は改易、奥平内蔵允の嫡子・源八(当時12歳)、ならびに内蔵允の従弟・伝蔵正長へは家禄没収の上、追放が申し渡されました。しかし、両者には大きな差がありました。両成敗ならば奥平隼人は切腹となるはずでした。奥平源八たちへは即日退去を命じておきながら、奥平隼人とその父・半斎へは護衛を付けて送り出しました。奥平隼人親子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せました。その為、この処分には喧嘩両成敗にせず、不公平であると追放された奥平源八とその一族に同情する者が続出しました。奥平家を見限って浪人の身となる者さえ現れました。こうして源八の一党は、軽輩や重臣の子弟までもが含まれる一団となり、源八一党は仇討を誓って3年余も雌伏する事となりました。事件の当事者を追放してまもなく、追腹一件を幕府から咎められた奥平家は2万石を減石されて出羽山形藩9万石への転封となりました。1669年、奥平源八ら一党は手始めに、追放処分を受けずに奥平氏に留まっていた隼人の実弟・奥平主馬允を出羽上之山で待ち伏せし、討ち取りました。源八一党からの襲撃を不安視した奥平隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ身を移しました。1672年3月2日未明、奥平源八とその一党42名が奥平隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入りました。奥平源八らは10数人を斬るなど終始優勢でした。しかし、奥平隼人の父・半斎を討ち果たしたのみで、目的の隼人を探せませんでした。いったん仇討ちを断念した討ち入りの一党が、屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、奥平隼人が手勢を率いて追ってきました。奥平源八はとって返して奥平隼人と対決し、ついにこれを討ち取りました。奥平源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねました。文治政治への転換を進めていた徳川家綱政権は、この行為を許さず、武士の私闘を悪として封じ込める策を採りました。ただし、奥平源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄による幕閣への影響力が大きかった為、結果としては死一等を減じて伊豆大島への流罪という処分に落ち着きました。流罪から6年後、天樹院(千姫)13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免された源八は、この後は彦根藩井伊家に召抱えられました。他にも、他家へ召し抱えられた者がいました。奥平源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる「元禄赤穂事件」で「赤穂浪士」たちが参考にしました。奥平源八の一党は仇討ちを果たした後、自ら出頭しましたが、「赤穂浪士」もこれに倣って出頭しました。

その次に、第二次世界大戦:ビスマルク海海戦です。1943年2月1日〜7日、日本軍はガダルカナル島から撤退しました(ケ号作戦)。同時期、連合軍はニューギニア島方面で攻勢に出ており、1月2日には東部のブナが玉砕しました。日本軍は連合軍の次の攻撃目標と思われるラエに陸軍第51師団を送り、侵攻に備える事にしました。この輸送作戦は「第八十一号作戦」と言いました。一方、連合軍も日本軍がラエ地区の防御を固めると考え、考案した反跳爆撃という方法で輸送の阻止を試みました。連合軍は3月5日頃に日本軍がラエに上陸すると判断し、アメリカ陸軍航空隊とオーストラリア空軍は航空機を集結して3月1日には攻撃準備を完了しました。日本軍の輸送船8隻と護衛の駆逐艦8隻(木村昌福少将)からなる輸送船団は、2月28日に予定通りラバウルを出航しました。3月1日、連合軍の「B−24爆撃機」がビスマルク海で船団を発見し、攻撃隊を送りましたが天候不良のため船団を発見できませんでした。3月2日、「B−17爆撃機」10機が船団を水平爆撃で攻撃し、輸送船「旭盛丸」が沈没しました。駆逐艦「雪風」、「朝雲」が「旭盛丸」に乗っていた兵員を救助してラエへ向かいました。午後には「B−17爆撃機」8機による攻撃があり、運送艦「野島」が損傷しました。「雪風」、「朝雲」は日没後ラエに到着し、兵員を揚陸後に船団護衛に戻りました。3日午前、まず「ブリストル・ボーフォート」10機が攻撃を試みましたが、零戦に阻止されました。次いで連合軍の大編隊が襲来しました。「ブリストル・ボーファイター」13機が低空で進入して機銃掃射し、「B−17爆撃機」13機が高度から爆撃しました。これによる輸送船の被害はありませんでしたが、さらに「B−25爆撃機」13機が中度で水平爆撃、続いて「B−25爆撃機」12機が低空で反跳爆撃を行いました。その後「A−20攻撃機」12機、「B−25爆撃機」6機がさらに反跳爆撃を行いました。この攻撃で輸送船7隻と駆逐艦3隻が被弾して「建武丸」、「愛洋丸」および旗艦の駆逐艦「白雪」が沈没、司令官・木村昌福は機銃掃射により重傷を負いました。生き残った駆逐艦部隊は、沈没艦の生存者救助を攻撃後しばらく行っていました。しかし、10時30分頃、敵機再来襲との報が入り、司令官・木村昌福は「救助作業中止、全艦一時避退せよ」との命令を下しました。無傷であった駆逐艦「朝潮」は、単艦で「野島」の救助に向かいました。「野島」に近づいたところ、近くに航行不能となった「荒潮」が漂流していました。「朝潮」は両艦の生存者を救出すると避退に移りました。直後に「B−17爆撃機」16機、「A−20攻撃機」12機、「B−25爆撃機」10機、「ブリストル・ボーファイター」5機、「P−38戦闘機」11機が船団を攻撃し、「神愛丸」、「太明丸」、「帝洋丸」、「野島」が被弾して沈没しました。被弾して航行不能となっていた「大井川丸」、駆逐艦「荒潮」、「時津風」もその後の攻撃で撃沈されました。健在だった「朝潮」も、付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため、集中攻撃を受けて航行不能となり、総員退去に追い込まれました。「朝潮」の乗艦者のうち一部は3日間の漂流の後に日本軍に救助されましたが、艦長・吉井五郎中佐の他、「荒潮」艦長・久保木英雄中佐、第八駆逐隊司令・佐藤康夫大佐以下299名が戦死しました。日本軍は輸送船8隻すべてと駆逐艦4隻を撃沈され、兵員約3000名、物資約2500トンを失い、輸送作戦は失敗しました。これは「ダンピールの悲劇」と呼ばれています。

最後に、第三清徳丸襲撃事件です。第三清徳丸襲撃事件は、尖閣諸島海域で操業中の「第三清徳丸」が中国旗を掲げる2隻のジャンク船に襲撃され、2名が射殺されて4名が行方不明になった事件です。1955年3月2日午後2時頃、尖閣諸島の魚釣島西方約2海里の地点で操業中の「第三清徳丸」に、中国旗(中華民国)を掲げた2隻のジャンク船(大安丸・他)が救助を求めました。「第三清徳丸」は、曳航しようと接舷したところ、兵隊のような格好をした2名が「第三清徳丸」に飛び移り、船長と船員合わせて2名を射殺しました。残りの船員7名は海に飛び込み、2海里離れた魚釣島まで泳いで逃げました。しかし、3名しかたどり着けず、4名は行方不明となりました。魚釣島にたどりついた3人は島の裏側で操業していた「第一清徳丸」に連絡した後、石垣島に難を逃れました。これは、沖縄がアメリカから返還される前の事件でした。しかし、沖縄を統治していたアメリカは問題の解決に動かなかったため、犯人が捕まる事も、事件が究明される事もありませんでした。

今日の誕生日:米内光政、神坂次郎、ミハイル・ゴルバチョフ、藤木悠、島津貴子、三遊亭小遊三、カレン・カーペンター(カーペンターズ)、松下賢次、剣幸、吉沢京子、麻原彰晃、ジョン・ボン・ジョヴィ、段田男、朝基まさし、豊田真奈美、魚住りえ、島崎和歌子、中田大輔、松田大輔(東京ダイナマイト)、優木まおみ、里見香奈、丸井ヤング館(元・寺井洋一)

今日の記念日:ミニの日、ミニーマウスの日、サニの日、出会いの日

今日の「今日訓」:本日は、3月2日の「32」が「ミニ」と読める事から「ミニの日」、ミニチュアものを愛そうという日です。また、「ミニー」と読んで「ミニーマウスの日」、「サニ」と読んで「サニの日」、「ミーツ(meets)」と読んで「出会いの日」となりました。
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