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2017年02月27日13:11

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日経文化欄「愛煙家のひとりごと」

 昨日、日曜日の日経新聞文化欄にこんなタイトルのエッセイが載っていた、「愛煙家のひとりごと」。筆者は、10日ほど前の日記「和食、日本料理」で触れた「胃袋の上に頭が乗っかっているような人間」と自認する文化人類学者石毛直道先生(なうての愛煙家でもある)。

 タバコの吸いすぎで、保護者である女房からのお小言の絶えない…、と言った感じで始まるエッセイの概略は以下のようなナゲキ節?。(舌足らずな要約で、乞うご容赦)

 *吸い過ぎ(喫煙量の増加)の原因は、会議での禁煙が原因。会議の休憩ともなる
  と、吸えなかったぶんをとりもどし以降の禁煙時間のぶんまで吸っておこうと、
  短時間にたてつづけにタバコを吸う。これが癖になった。で、気兼ねない自室で
  の喫煙もチエーン・スモーキングとなった、「禁煙を奨励する世相が、わたしを
  ニコチン依存症にしてしまったのである」。

 *「公共施設や職場では禁煙が普通となったので、愛煙家は休憩時間に喫煙所でタ
  バコを吸うことになった。日本の喫煙所はせまい小部屋で、うす暗く、イスがな
  く、立って吸わせる施設であることがおおい。ゆったりとタバコを楽しませる雰
  囲気の喫煙所はきわめてすくない」。

 *「わたしにとって、いちばんタバコがおいしいのは、食後の一服であるが、それ
  も外食のときは難しくなったこの頃である。また、愛煙家にとっては、酒を飲み
  ながら吸うタバコの味は格別によいものであるが、禁煙の酒場も出現するように
  なった」。

 *「たしかに、タバコは健康に悪影響をあたえる嗜好品であろう。しかし健康の関
  係でいえば、大量の煙を排出する自動車の排気ガスも有害であろう」「「タバコ
  をやめろ」というならば、「自動車に乗るのもやめろ」と、いいたくなる」。

 *「嫌煙運動が盛んになった現在では、喫煙者が社会的「いじめ」の対象になりは
  じめている。タバコを吸う者は、害毒をまきちらす悪人とみなされるようになっ
  たのである」。
 
 *来たるべき東京オリンピックにむけて、健康増進法改正案が国会に提出されると
  かで、そうなると喫煙室のない飲食店や小さなバーでは禁煙となる。「酒を飲み
  ながら、なじみのバーでタバコをくゆらすことができなくなるのだ。肉体的健康を
  重視するだけではなく、愛煙者の精神的健康も考慮してもらいたいものだ、とい
  いたくなる」。

 *「そんな世相をぼやくよりも、健康にもよくないタバコをやめたらいいではない
  か、といわれそうである。だが、わたしには禁煙できない事情がある。親友の小
  松左京さんは、一日に一二〇本のタバコを吸う愛煙家であった。タバコの害が強
  調され、周囲の人びとが禁煙するようになった頃のことである。
  「「おれたちは、禁煙するなんて意志薄弱なことはするまいな」と、固い誓いを
  かわしたのである。小松さんの告別式のときには、棺桶(かんおけ)にタバコの
  箱を納め、献杯ののちに、故人の写真にタバコの煙を吹きかける、「嫌煙」では
  なく、「献煙」をしたことである」。

 *「もうすぐ八〇歳になるわたしが、これから禁煙をしたところで、どれだけ長生
  きできるものやら。それよりもタバコをやめることにともなうストレスで寿命を
  縮めることになりそうだ。
  そんな自分勝手な理屈をこねて、タバコに火をつける、この頃である」。
 (いやいやマッタク、悲愴なまでに、否、哀しいまでに可笑しい「ひとりごと」)

 が、さっそく昨日の朝9時前には、このエッセイを読んだのであろう人が、「愛煙家のひとりごと、はひとりごとにして下さい」とのタイトルで反論をブログに書いていた。
 *「書いてあることは、愛煙家のただの愚痴で、目新しいことはなにもない。」
 *「タバコをやめろというなら自動車に乗るのもやめろといいたくなる」と書いた
  のに対して、「これは愛煙家がよく口にする理屈だ。しかし「自動車」には社会
  的な有用性がある。タバコにはない。これで議論は終わる。
  こんな主張が通るのなら、包丁は人を殺すからなくせ。飛行機は落ちるから飛ば
  すな。などなど。きりがないではないか。」
 *「およそ世の中ものは、人間も含めて、ほとんど何らかの「リスク」を帯びたも
  のだ。それをいかに社会や人間への害が及ばないように、その有益性だけを導く
  か、というのが人類が営々と築いてきた業績だ。」
  (まことに、明快かつ論理的で合理性の極みかと思える、ご指摘だ!)

 「だが、しかし…」と、少しばかり肩身の狭い想いで性懲りもなくタバコを手放せないでいる私奴は、ゴモゴモと呟いている。

 たしかに、某ブログ氏の指摘するように、書いてあることは愛煙家のただの愚痴で、目新しいことはなにもない。
さわさりながら、「大食軒酩酊」なる雅号を持ち、「胃袋の上に頭が乗っかっているような人間」と自認する文化人類学者石毛直道先生にして、「バーの片隅で煙をくゆらせる」「食後の一服を楽しむ」ことについて、目新しいことの書きようがない。このこと自体が深刻な事態なのだ!と言えるのでは。
「ただの愚痴」との指摘だが、愚痴、大いに結構じゃあないですか。そもそも愚痴として以外に書きようがあるのだろうか?

 某ブログ氏が「愛煙家のひとりごと、はひとりごとにして下さい」とタイトルにしているのは、日経新聞日曜版文化欄という社会的にパブリックな場所では、愛煙家が愚痴ることなどは差し控えるべきだと考えているからかも知れない。
私奴はむしろ反対に、「このご時世に、よくぞ紙面をあけてくれたものだ」と編集者に拍手を送りたいと思っている。

 まあ、いずれにしろ「愛煙家にとっては、四面楚歌」というか、「愛煙家三界に家なし」というご時世ではある。ことがタバコの煙程度のことでおさまれば良いのだが!
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