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2017年01月14日05:49

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続・火星上から地球の出を見る。または独学の悲しさについて

ある意味前回の日記の続きだが、これは計算ではなくつぶやきをまとめたもの(プラス補足)である。この種のまとめはもうやらないかと一時は思ったが、そんなことはなかった。


先週から位置天文学で頭を悩ませている。

複数のテキストから「惑星の光度は位相に比例する」という説明を発見して困惑している。現代天文学講座『天文計算セミナー』、渡辺敏夫『数理天文学』もそう。これは理科年表の月の位相と光度の表と全く矛盾するのだが、一体どうなってるのか。


そもそもは火星から見た地球の光度を求めることだった。前回の日記で一応の結論を出してはみたのだが、おそらく結果が正しくないだろうとは思っていた。まず地球の絶対等級を求めてから、火星と地球の距離の見当をつけて等級を計算したのだが、その結果は、その後他の資料から見つけた数値とかなり違っていたからだ。

そこで推測した。結果が違うのは二つの問題があるからだ。第一に、地球の距離をきちんと求めていない。金星からの類推で適当に見当をつけただけなので、距離が違っているのは確実だ。だが書いた時は実際の値とどのくらいずれているのか判断がつかなかった。
第二に、地球の相、すなわち満ち欠けを計算に入れていなかった。太陽との位置関係からいって、火星から見える地球がかなり欠けていることは明らかで、それにより明るさが変化するはずだが、これも計算方法を知らなかった。

で、さらに資料を探してみた。その結果見つけたのが斉田博『天文の計算教室』。おかげで地球の太陽に対する角距離と相をきちんと計算できるようにはなった。

しかしそこでまた問題が生じた。惑星の相と明るさの関係に疑問が出てきたのだ。
斉田著の説明に「惑星の光度は相に比例する」とある。しかしこの簡単な記述にどうしても納得できなかった。

惑星については知らないが、月の位相と光度の関係はある程度知っていたからだ。満月と半月や三日月の光度は、光っている面積と単純に比例しない。たとえば半月は見かけ上満月の半分の面積で光っているが、光度は満月の1/2よりはるかに暗い。
こういう知識があったので、地球は位相から計算される値よりさらに暗くなるはずだ、と思った。

では実際の相と明るさの関係はどうなっているのか。検索したら理科年表に書いてあるそうなので、『理科年表CD-ROM』(2006年版)を調べてみた。1957年の記事に月の相と等級の関係の表がある。

そこで位相が90度すなわち半月の等級を見たら、約2.7等暗くなることがわかった。もし月の明るさが相に比例するとしたら、半月の明るさは満月の半分でならなければならない。つまり0.8等しか暗くならないはずだ。
これで明らかに相と明るさは比例関係にない、と思った。そこで理科年表の表から補間して、火星から見た地球の相から等級を計算し、プラス0.7等という結果を得た。

これでめでたしめでたしかというと、まだ結果には問題がある。
このときの地球の距離は、明るさが相に比例するという前提で計算したものだったからだ。しかし相と明るさが比例関係になければ、この距離も正しいとはいえなくなる。より正しい答を出すにはどうしたらいいだろうか、と悩んだ。

そのためさらに資料を探したのだが、そこから冒頭の文に戻る。

見つけたのは現代天文学講座14巻『天文計算セミナー』(恒星社厚生閣1981年)、渡部敏夫『数理天文学』(恒星社厚生閣1969年改訂第2版)だが、この2冊からもやっぱり、
「惑星の光度は相に比例する」という記述が見つかったのだ。

これですっかり悩んでしまった。
手元にある唯一の資料は月の相と等級の関係だが、そこでは明らかに相と明るさが比例関係にないことが示されている。だとすると複数のテキストに、これとまったく矛盾することが書いてあるのは一体どういうことなのか。

「月の」光度は位相に比例しないが、「惑星の」光度は位相に比例する、のだとしたら矛盾はないのだが、そういう「説明」が書いてある本がどこにもない。ウェブにもない。国立天文台に訊いてみるしかないのかしらん。

月と惑星の違いは当然大気の有無であるから、矛盾をなくすには、大気のない天体の反射と惑星大気からの反射は性質が異なる、と考えるしかない。
月面からの反射と大気の反射が全然違ってくるというのは、いかにもありそうなことではある。しかし見つけたテキストには、大気からの反射の性質はどうなっているのかといったことは全く書かれていないのだ。
こういう事情をどの本も全く注意してくれないということは、おそらく専門家の間では常識なのかもしれない。でも、その「常識」は一体どこで知ればいいのか。なんとも困っている。

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こういうことを考えていると、トンデモ本を書く人の心境が理解できる気がする。多くの人が事実と主張している内容に明らかな矛盾があるのに、誰も指摘していない。ここで、自分の方が正しく、今までのテキストは皆間違っていると思いこんでしまうのが「と」の人というわけだ。

反対に、「真空の天体からの反射と惑星からの反射はどうやら性質が違うようだ。それでは惑星大気層からの反射の性質を学ぶのにはどんなテキストを読めばいいのだろう」と考えれば、トンデモ人間になる危険から免れる。サウイフモノニ  ワタシハナリタイ。



ここまで書いた時、自分の天文学の学び方はトンデモの人のオカルトや陰謀論の「学び方」と全く同じ性格を持っているのではないか、というぞっとしない認識が降りてきた。「独学の危険性」を実感して肌が粟立つ思いだ。


要するに、興味を持った分野の本を手当たり次第に読んで、関連のない別々の本の系統性のない記述を寄せ集めて知識を得ようとする方法論は、こと科学に関しては「絶対に良くない」


火星から見た地球の問題からもわかるように、限られた知識からでも、計算によって具体的でそれなりにもっともらしい結果は出る。(1)

その計算結果はいかにも「正しく見える」ので、それと矛盾する主張を聞くと、相手の主張の方が間違っていると反射的に思ってしまうことになるのだ。だが、この直観はきわめて怪しい判断でしかない。
今の例だと、「真空の天体からの反射」と「大気のある天体からの反射」の知識なしに判断しているわけで、その知識を持っていたら全く違う判断になる可能性が高いからだ。

そういうわけで、限られた知識から何かを判断するのは危険なことである。科学者がときどき奥歯にものが挟まったような発言をするのは、そういう危険性を自覚しているからだろう。


ただしこれは、よくいわれる「科学ではわりきれないことがある」という類の問題では「ない」。
科学に分からないことがあるのは当たり前で、現在の科学知識が将来誤りと判定されることは、今まで何度も繰り返されてきたことだから今後も当然起こり得る。だから科学者が上のような事をいわれても、「そんなの当たり前」としか思わないだろう。

しかし独学の危険性はそれとは全く違う。
それは「既存の知識に穴が開いている状態で判断する」のを避けられないことだ。その結果、知識のある人なら誰でも知っているようなことで、全く誤った判断をしてしまう危険性があることになる。


トンデモ本を書くのは、そういう「判断」をしてしまう人なのだろう。そんな人間にならないためには、常に自分の判断を疑うという態度を必要とするのだが、これが実に難しい。

先週まで自分は「天体の光度は相に比例しない」と信じ込んでいたわけで、これは月の実例があるから一般的には「正しい」。しかしそれが「惑星には当てはまらないかもしれない」という可能性は全く考えてもみなかった。つまりなまじ中途半端に知識があったせいで、自分の判断を疑わなかったことになるわけだ。


アイザック・アシモフは「すべて疑え」でこう書いている。 (2)


…理性的にものごとを疑うには、その正当性のだいたいの判断が必要である。…
…疑うということを、正しく、取り扱いできるようになるためには、膨大な訓練を必要とする、大へんな仕事なのである。専門的分野における訓練が不足している人々は、まず何を疑うべきか、疑わざるべきかが分からない。また逆に、何を信ずべきか、信ぜざるべきかの区別も分からないのだ。
(草下英明訳・『空想天文学入門』早川書房1963年・P.215-216)


結局、科学的な判断ができるようになるには、一貫した課程を習得する手続きが不可欠ということだろう。自分は理学部に進まなかったので、その道から外れてしまった。おかげで未だに苦労している。

一応そういう自覚は持っているので、岩波の「理工系の数学入門コース」「物理入門コース」といった講座シリーズをできるだけ買い求めてはいるのだが、いつもちゃんと読む時間がとれない。

こんな「修行」は、メディアの「最新科学情報」を「消費する」には必要ないだろうが、自分が今やろうとしているような、何らかの「科学的な判断をする」には、どうしても一定の修行が必要ということだ。さもないとトンデモ面に落ちることになるのだ。(3)

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注:
(1)フェルミ検定というやつがしばらく前から流行っているが、限られた知識から妥当な判断をするというのはまさにフェルミ検定である。ただし、これは全く知識がない者がやるときわめて危険であるとも思う。本来の形では、専門的な訓練を受けた科学者が、専門知識のない問題について大体の答を出すという性格と思うが、だとしたらフェルミ検定自体が科学的訓練を前提としていていて、非科学的な頭の人間には無理な作業だと思う。


(2) ここでアシモフは「疑うこと」について書いているが、これと表裏一体の問題、「科学的な「誤り」とは何なのか」についても「誤りの相対性」で書いているので一応引用しておく。

あなたが、地球は平坦であるという誤りと地球が球であるという間違いを同じことと思うなら、あなたの考えは二つの間違いを合わせた以上に間違っている。
根本的な問題は、「正」と「誤」は絶対であるという考え方にある。すなわち、まったく正しくないものは完全に誤りであるということだ。私は、そうは考えていない。
…どの世紀の科学者も宇宙の説明ができたと考えながら、結局は間違っているのである。しかし、私が知りたいのは、どれだけ間違っているかということだ。
…単純な感覚からすると、現在の学説は誤りとみなされるようになるかもしれないが、もっと厳密で微妙な感覚からすると、たんに不完全と見なされるだけである。
(山越幸江訳・『誤りの相対性』地人書館1989年・P.275,279,287)

トマス・クーンはどうした?とツッコミたくなる人もいるかもしれない。そういう人には、「ポアンカレ『科学の価値』P.284-287を読んでからお願いします」と返しておこう。

(3) そう考えていくと、「原発事故」について同様な問題が生じていることがわかってくる。あの事故で多くの人が突然、今まで全く経験のなかった「科学的判断」を自分自身のためにやらなければならなくなった。だが、かれらのほとんどは、アシモフのいう「疑うことを正しくとりあつかう訓練」を全く受けたことがない人たちだった。悪いことにこの事件では、専門家の判断の誤りが繰り返しメディアで流れるという事態が起こり、それがトンデモな判断を正当化すると少なからぬ人に受けとられてしまった。
誤りに相対性があるように、正しさにも相対性がある。個人的意見をいうと、原発問題で政府やマスコミや権威者の主張を疑うことは「正しい」。だが、どの程度の疑いまで妥当なのかは、専門的な訓練なしには判断できない。疑うことは「必要」だが、疑いの中にも固有の危険性があり、疑いに精神をむしばまれるケースが目立ってきた。私の目からは放射能の影響について対立する双方に、この種の精神的病気が見てとれる。

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