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2016年11月15日18:05

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潜在的な「プライド」の問題と、新制度に浮かぶ懸念。

地方に住む83歳になった現在入院中の父も、2年ほど前に返納した。
正確には“失効”させた格好だが・・

それ以前に入院した数年前辺りの段階で、運転技術に鈍さを見せ始めてから、
家族はどうにか車を手放す方向へ持っていこうとした。
しかし、最初はすんなりとはいかなかった。

それはやはり「自分はまだまだ・・」という部分があったからでもある。
それと元々少し足が不自由なことにより車が欠かせなかったのと、
地方特有の不便さもあったからだ。
そうした実質面とは別な所で、免許放棄に向けた説得経緯の中で気づいたことがある。

父は地元の教習所における「第二期卒業生」で、当時地元ではまだ車が数台程度しか
走っていない時代に取得した。その前に取得していたバイクの運転技術と、
メカにめっぽう長けている資質もあってか、まだ充分な態勢にない教習所から
教習のサポート役を依頼されることが度々あったそうである。
そんな父に、自身も免許取得とその後の運転から車の仕組み、
メンテナンス等あらゆることを教わった。

息子であることの贔屓目を除いても、単なる運転の巧さだけじゃない
運転技術全般や車の特性等など、総合的な能力というのが高いことは認めざるを得なかった。

そうした背景経緯等を諸々考えると、運転免許というのは今や誰でも取得出来る、
また誰でも半ば最低必須な資格要件ともなっている側面にある中で、
それを手放さねばならない、認められなくなるということは、他者〜社会からの
「否定(失格者の烙印を押される)」ことでもあり、実質面とは別な部分で
「手足がもがれる」という感覚がもたらされるのだろう・・と感じた次第だ。

父のような背景の中にある「実績やプライド」・・これを否定され資質を取り上げられる喪失感・・
単に「まだ運転出来るから」という自負以外の所で、精神的な悲壮がもたらされる、と。
深くあれこれと想像を巡らせると、そんなことが頭をよぎった。

母や女兄弟はそんな父に対し、「運転が鈍くなって来ているので危ない」
「誰かを巻き込んだら取り返しがつかない」「もう歳なんだし車がなくてもどうにか生活は出来る」と、ダイレクトな言い方で迫ったが、案の定反発を招いた。
それを目の当たりにしたのもあって、自身としては、

「親父の技術や車の安全への感覚・感性らは流石にまだ第一線だ。
なので自分は急激に衰えているとは思っていない。それとは別に、入退院を経たことで
体力そのものが一頃よりも落ちているだろうから、自分で殆ど行っている
タイヤ交換やオイル交換、その他のあらゆる作業自体がしんどくなるだろうし、
実際そうなっているのだから、車はそろそろ手放してもいいんじゃないか!?
それが自分の手で出来ないんじゃつまらないだろうさ」とし、

「運転そのものはまだ出来るんだから、免許は取り敢えず保持し、
運転したくなったら帰省した時、俺の車で好きなだけ操ればいいさ。
横で監督してやるからさ(笑)」

なんていう少し柔らかなニュアンスで、プライド的なものを否定せずに持っていき、
最終的に車検を期に車を手放し、免許そのものもちょうど次の入院時に掛かったため、
半自動的に失効させたのだが・・。

他方で、こうしたプライド的な部分を含めた、一般的に言う「自信過剰」に対する指摘・・。
高齢者ゆえのことであることは明白で、指摘そのものは正しくもありながら、
その中には決して正しいとも言えない要素ってのが介在しているような気もするわけで。

それはやはり「個人差」で、詳細な要件を詰めていかねば、単に高齢者だから、
○○歳を超えているから危険・・というのはやや大雑把過ぎてしまう。
だからこそ、方針にある適正判断を義務化させようとする動きになるのだろうが、
ここにも問題が存在する。

記事にあるように、「75歳以上」という境目は、何を根拠にしたものなのか、だ。
考えられるのは、過去の事故内訳等から来る平均値と言ったような気がするが、
その「平均」に危うさが潜むのじゃないか。

それ以上に問題なのは「医師による診断」という手法だ。

正確な中身が不明なので確たることは言えないが、この外観だと運転技術適正は、
医師におよその決定権がもたらされることに繋がってしまう。
つまり、道路交通法に関する分野は、門外漢である医学の分野に比重が掛かるわけで、
それは果たして本当にあるべき姿なのか、と。

勿論、視力や脳由来による判断能力等が、医学的見地にあることは間違いないだろう。
その点で、医師の診断が運転技術の認可要素として「追加」されることも然り。
但し、その比重バランスに不適正さがあった場合、診断を下した医師に、
ある種の「責任」が及んでしまう。

ざっくり言えば、医師の責任において、運転免許資格判断を誤った格好で与え続けることも、
その逆に奪うことにもなる・・ということだ。
これは医学と医師自体にかつてなかった、更なる労働量の追加であるだけじゃなく、
「過剰で不必要な重圧」を背負わせてしまう恐れがある。

また、増え続ける高齢者事情にある中で、専門的知見と経験値を重ねるべきな
医師の数というのが充分担保され、かつ全国に満遍なく配置されるのか・・
といった懸念が残る。とりわけ高齢の免許保持者の割合は都市部よりも地方の方が
高くなるだろうことを考えると、そうでなくとも地域医療が疲弊している状態にあって、
国や一般が考えているほど簡単な体制等組める道理がない。

このことは乱暴にいえば「高齢者の運転技術の有無を医師に半ば丸投げし」、
他方で「医師が下したのだから間違いがない」という安易な空気が醸成されてしまいかねない。

そうではなく、根本的に考えるべくは、例えば高齢者という区分はもう少し下げたうえで、
今までのような半自動的な免許更新というよりも、「再資格受験」のような形にする方が
良いのではないか、と。それは既存のような学科的部分を中心にしたものではなく、
実地試験を基軸にした再受験制度にしていくべきで、その中に必要に応じた医師による
補完的な診断要件を盛り込んでいく・・と。

免許保持者による自己返納に依存するのではなく、試験の結果による合否によって
再交付の有無がもたらされる方が、個人に拠る意識過剰やプライド的なものも抑制可能となる。

これは何も高齢者に限ったことではなく、全ての対象者にも通じるもので、
今のような“ほぼ事務作業”で更新が可能なものであるからこそ、危険な運転者や
無知識状態に拠る交通事情をもたらす原因でもあるわけだから・・。

■100歳まで免許持ちたかった… 97歳上人、返納決断
(朝日新聞デジタル - 11月15日 11:55)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4293787
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