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2016年10月08日06:25

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古戦場めぐり「倶利伽羅峠の戦い(富山県小矢部市・石川県津幡町)」

古戦場めぐり「倶利伽羅峠の戦い(富山県小矢部市・石川県津幡町)」

◎『倶利伽羅峠の戦い』
治承・寿永の乱で起きた戦いの一つ。寿永2年(1183)5月11日、加賀・越中の国境である倶利伽羅(くりから)峠で、北陸地方に勢力を拡大した木曾義仲の軍と義仲軍を食い止める為に北陸方面に進出した平家軍の間で行なわれました。平家軍の総大将・平維盛(清盛の嫡男重盛の長男)は、倶利伽羅山中の猿ヶ馬場に本陣を敷いて、7万余騎の軍勢とともに木曽義仲率いる源氏軍を待ち構えていました。一方、義仲は埴生八幡宮で戦勝祈願を行った後、平家の動きに合わせて味方の軍を7手に分け配置させ、夜が更けるのを待っていました。夜半に北側の黒谷の方角から、4,500頭の牛の角に松明(たいまつ)を付け、4万余騎の軍勢とともに平家の陣に突入しました(火牛の計)。昼間の進軍で疲れ切っていた平家軍1万8千余騎は、源氏軍の奇襲に混乱し何もできずに追い詰められ、人馬もろとも地獄谷に突き落とされました。義仲軍の夜襲によって平家軍が壊滅したことにより義仲軍の勝利となり、義仲軍はこの勝利の勢いに乗じて京都を占領し、平家は都落ちとなりました。

○「倶利伽羅峠古戦場」(富山県小矢部市)
倶利伽羅峠は、春は6000本の八重桜、秋は紅葉と、歴史探訪や行楽に最適なスポットです。石川県津幡町から富山県小矢部市側に入ると、源平合戦の舞台となった史跡がたくさんあります。
【為盛塚】
平維盛の配下で戦った平為盛の供養塔です。
【火牛の像】
木曽義仲の「火牛の計」の作戦が「源平盛衰記」に記されています。源氏の軍勢は、太鼓、法螺貝を用いて一斉に閧の声を上げ天地に轟かせました。と同じく、角に松明を付けられ猛り狂う500頭の牛を平家軍に放ちました。京都からの長途の行軍に疲れまどろんでいた平家軍は、寝ぼけて暗闇の中をあわてふためき、武具も整えられず右往左往するばかり。将兵は軍馬もろとも地獄谷へ駆けこみ落ちました。その数は1万8千余騎であったといいます。
【埴生護国八幡宮】
木曽義仲が戦いに行く前に戦勝祈願した神社。倶利伽羅峠の東側に位置し、1300年余りの歴史を誇ります。倶利伽羅合戦以降、「勝ち運の神」として戦国時代には佐々成政が、藩政期には加賀藩前田家が厚い信仰を寄せました。
【矢立】
義仲軍の最前線だったところ。幅300mほどの谷を隔てた塔の橋から、平家軍が矢を放ち、ここに多くの矢が立ったことから「矢立」と呼ばれます。
【塔の橋】
平家軍の最前線だったところで、西の矢立山に陣取る義仲側の今井兼平軍に向かって矢を放ちました。
【源氏ヶ峰】
平家軍の陣地だったこの峰を義仲軍が占領したので、この名が付けられたといいます。源氏軍の女武将・巴御前が、この峰から猿ヶ馬場の戦場に攻め込みました。
【猿ヶ馬場】
平家軍の総大将・平維盛が本陣を敷いたところ。峠を登った馬がたくさん猿ヶ堂の辺りにつながれていたので猿ヶ馬場となったそうです。
【巴塚・葵塚】
木曽義仲の愛妾で巴御前、葵御前がいて共に大力無双で男に勝る勇者でした。葵御前は、この合戦で討死してこの地に葬られたといいます。巴御前の塚は、後に建てられました。

○「実盛塚・首洗い池(篠原古戦場)」(加賀市篠原)
倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曽義仲は、そのまま南進して平家軍の掃討作戦を展開していました。ほとんどの平家軍が敗走し京都へ落ち延びる中、斉藤別当実盛は、敗走する平家軍の中でただ一騎踏みとどまって戦いました。実盛は、義仲幼少時代の命の恩人でしたがこれを秘し、73歳という老齢の身を侮られぬよう白髪を黒く染め名乗りもあげずに戦ったといいます。しかし、奮戦空しく手塚太郎光盛に討ち取られ、その亡骸を葬った所が「実盛塚」と伝えられます。次に、「首洗い池」です。実盛の討ち取った首を樋口兼光がこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わり、この首が実盛のものだということがわかりました。義仲、兼光、光盛が斉藤実盛の死を哀れんでいる姿の像が、首洗い池の脇にあります。義仲が抱いているのが実盛の首だそうです。

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