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2016年10月05日06:09

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古戦場めぐり「浅井畷の戦い(石川県小松市)」

古戦場めぐり「浅井畷の戦い(石川県小松市)」

◎『浅井畷の戦い』
「浅井畷(あさいなわて)の戦い」は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の年に起こった北陸地方における前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の戦いです。
石田三成が挙兵すると、その7日後の7月26日、東軍方の金沢城主・前田利長は、大谷吉継の誘いを受けて西軍に従う小松城主・丹羽長重を討つべく、2万5000を率いて出陣しました。しかし、丹羽軍はおよそ3000の兵力でしたが、守りが堅固であったため小松城は落ちません。利長は小松城に抑えの兵を残し、同じく西軍に属す山口宗永居城の大聖寺城へ進軍し、8月3日に大聖寺城は間もなく落城し、宗永は自害しました。
利長はさらに南下し、青木一矩が拠る北ノ庄城へ進軍しますが、その途上、敦賀城主・大谷吉継が北ノ庄城救援に出陣したこと、また、金沢城を攻めようとして海路を北上して留守にしている、という情報をつかみます。そのため利長は急遽撤退を開始し、金沢城への帰還を始めました。しかしこれは、吉継が流した虚報であったといわれます。大聖寺城と金沢城の間に、丹羽長重の居城・小松城が位置しているため、どうしても長重の領土を通過する必要があります。利長は部隊を7つに分け、殿(しんがり)を長連龍に任せました。
8月9日、一方の丹羽長重は前田軍が撤退していることを知ると、すぐさま小松城から出陣し、浅井畷(小松市大領町周辺)で待ち伏せを行います。そして前田軍の殿を任された長連龍が、浅井畷に差し掛かったところで、待ち構えていた丹羽軍が奇襲をかけました。利長軍の最後尾であった長連龍の部隊は、相当な被害を受けました。その後も小松城から続々と、丹羽軍の後続部隊が到着します。ですが、やがて前田軍の残り6部隊が戦場に到着し、丹羽軍を押し返したのです。
この浅井畷での戦いは、両軍痛み分けという形で終結しましたが、もともとの兵力が、前田軍2万5000、丹羽軍3000であったため、長重に再戦の余力はありませんでした。一方の利長は、家康の要請を受け、関ヶ原に向かうため再び西進を始めます。これを受けた長重は、ついに利長に降伏し、「浅井畷の戦い」は幕を閉じました。こうして、利長はなんとか金沢城に帰還したのですが、その後関ヶ原本戦に間に合いませんでした。

○「浅井畷古戦場」(小松市大領町)
浅井畷古戦場跡には、住宅街の中にある小広場に古戦場石碑が建ち、討死した前田方の長家九士の墓(石塔)が、ここ浅井畷の木立の中に散らばって残っています。それらの石塔は、皆それぞれの倒れた方向に向けて建てられているといいます。 これらは墓塔の形をとっていますが、埋葬を伴うものではなく、戦いの後、一定期間を経て建立された供養塔ともいうべきものです。万治3年(1660)に建てられた堀内一秀の塔が最も古いものです。
結局、この戦いは勝敗がつかず双方の痛み分けの格好で終結します。後に丹羽長重から和を請う使者が発せられ、利長はこれを受諾します。人質の交換などを約して小松城に入りました。これが、結果的には丹羽長重の降伏という形で終わった浅井畷の戦いです。長重はこの後、所領を没収されますが、3年後の慶長8年に常陸古渡一万石を給され、最終的には陸奥白河十万石余の城主となりました。現在、古戦場跡には説明板が建てられて、この北陸最後となった戦国時代の戦いを今に伝えています。

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