古戦場めぐり「九頭竜川の戦い(福井県福井市)」
◎『九頭竜川の戦い』
「九頭竜川の戦い」(くずりゅうがわのたたかい)は永正3年(1506)、越前九頭竜川にて朝倉宗滴を総大将とする朝倉氏と北陸一向宗との間に起こった合戦です。九頭竜川大会戦とも称されます。
長禄元年(1457)、父存如の死によって本願寺を継いだ蓮如は、精力的な普及活動に乗り出しますが、このことが延暦寺の逆鱗に触れ、近江へさらに越前吉崎へと布教の拠点を移さざるを得なくなります。蓮如の吉崎滞在は、僅か4年に過ぎませんでしたが、解りやすい御文を手段に急速に信者を拡大し、北陸は本願寺王国へと変貌し、吉崎は連日の参詣人で活況を呈したとされています。やがて信者達は団結し他宗派を攻撃し、明け暮れる戦乱への不満と下克上の風潮は「一向一揆」として勃発することになります。
文明6年(1475)、加賀の守護富樫氏の内紛が起こりますと、これに介入して、法敵とみなしている高田派に打撃を与えることに成功した一揆勢力は、自信を深め、やがて越前を追われた甲斐氏の勢力と結びつき、大きな力を得るようになります。一向一揆勢力は長享2年(1488)6月、ついに隣国加賀の守護富樫氏を滅亡に追い込み、加賀一国を「百姓の持ちたる国」へと変質させることに成功し、事実上掌握しました。加賀の支配を実現した一揆勢は、今度はそれを越前にまで広げようとするのは必然でした。また甲斐氏の残党である牢人勢力も越前回復を諦めることはなく、明応3年(1495)10月には甲斐牢人と一揆連合軍は越前に進攻し、防衛に出た朝倉氏との戦いは激しいものとなりましたが、双方とも相手に致命的な打撃を与えることなく、連合軍は加賀にひきあげました。永正元年(1504)にも一揆軍は侵攻するも、朝倉氏はこれを退けています。
この頃中央では、管領細川政元が敵対勢力を撹乱するために、本願寺と結びつき各地で一向一揆を引き起こさんと画策しておりました。これを見てとった越前の本覚寺、超勝寺など大寺は越前支配を目論見、加賀・能登の一揆勢に甲斐氏残党を加え、またしても越前進攻を試みます。これが史上名高い永正3年(1506)の一向一揆「九頭竜川大会戦」(九頭竜川の戦い)です。朝倉氏は孝景から孫の貞景の世になっていました。6月下旬から7月中旬にかけて、越前国内で一揆が蜂起し、これに応えるかのように、7月17日加賀・越中・能登の一揆勢力に甲斐牢人が加わり、未曾有の大軍団となって加越国境を越え坂井郡から進入します。その数約30万ともいわれています。軍団は兵庫(坂井)や長崎(丸岡)に陣取り、一乗谷に攻め入るため九頭竜川に布陣しました。これに対して朝倉方は、敦賀郡司を努める朝倉教景(宗滴)を総大将として、迎撃体制をとりました。朝倉軍は九頭竜川を防御線と定め、本陣を朝倉街道の「中の郷」に置き、宗滴こと朝倉太郎左衛門尉教景、有藤民部丞ほか3000、その東にあたる「鳴鹿表」に朝倉景職、魚住帯刀ほか精兵3300、「高木口」には勝蓮華右京進、堀江景実をはじめ2800、中角の渡しに対する「黒丸」には山崎小次郎祖桂、中村五郎右衛門ら2000が布陣しました。
一方、一揆連合軍は、「鳴鹿表」に超勝寺や本向寺を大将に河北郡と越前の一揆勢5万5000、「中の郷」には加賀の河合藤左衛門、蕪木常専をはじめ加賀石川郡の一揆勢と和田本覚寺を大将とする越前一揆軍の合計10万8000、「高木口」には越中瑞泉寺・安養寺、能美・江沼・越中の一揆勢、越前甲斐牢人など8万8000、「中角の渡し」には河合藤八郎、山本円正入道を大将に河北・越前一揆など5万7000がそれぞれ陣を構えました。朝倉軍1万1100に対して、一揆軍は30万8300と数の上では圧倒的優位のなかでの対陣でした。
川を挟んでの睨み合いが暫くは続いていましたが、8月5日早朝、最下流の中角の渡しで合戦の火蓋が切られました。一揆勢は一斉に渡河して、黒丸の陣へ攻め寄せました。まず、一揆の大将河合藤八郎が名乗りをあげて切りかかり、待ち受けた朝倉方大将山崎租桂と一騎討ちとなりましたが、一揆勢の河合は討ち果たされてしまいました。一揆勢の二番手の大将は山本円正入道で、朝倉方の中村五郎右衛門と組打ちとなりますが、中村が山本の首を打ち取りました。こうなるともう両軍は乱戦状態ですが、次第に両大将を討ち取られた一揆勢は退却しはじめました。
宗滴が陣取る中の郷の本陣では、諸将を集め渡河作戦について協議が行われていました。総大将の教景としては、渡河を決行して敵陣へ総攻撃をかけ、烏合の衆である一揆勢を一挙に蹴散らす作戦を考えていましたが、眼前の急流や味方に数倍する敵を見て、さすがに決断を下しかねていました。そのとき朝倉貞景の使者小泉四郎が本陣へ馳せつけて、「敵を渡河させてはならない、こちらから機先を制して渡河攻撃をせよ」との命令を伝えてきました。この命令によって諸将の意思が固まり、8月6日に渡河作戦が決行されました。3000の精兵は、教景の指揮旗を合図に、隊列を固めて急流を押し渡り、一揆軍へ襲いかかりました。一揆勢は不意を突かれ、たちまち右往左往の混乱状態となり、総くずれとなって逃げ始め、潰滅状態に陥ってしまいました。中の郷の敗戦が間もなく一揆の各陣に伝わったため、一揆の全部隊が恐慌状態に陥り、すでに渡河をして朝倉勢へ攻撃をしていた下流の諸陣でも、先を争って河へ飛び込み、逃亡し、溺死する者も多く、九頭竜川のさすがの広い川幅も死傷者で埋め尽くされたといわれています。
この敗戦で、30万の一揆勢のうち、加賀に逃げ延びた者は10万にも満たなかったといわれていますから、誇張部分を割り引いても朝倉軍の完勝といえます。こうして、越前史上最大の軍勢がしのぎを削った大会戦は終末を迎えました。この大会戦の後、朝倉氏は厳重な一向宗(本願寺派)の禁止政策をとり、吉崎をはじめ和田本覚寺、藤島超勝寺、久末照厳寺、荒川興行寺、宇坂本向寺以下越前国内の本願寺系の諸寺院をすべて破却し、国外追放処分とし、坊主から門徒に至るまで土地・財産を没収しました。しかしこれは、以後数十年にわたる加賀・越前の一向一揆と、朝倉氏との宿命的な対立の始まりにすぎなかったのです。
翌年8月28日、越前を追われた和田本覚寺、藤島超勝寺を中心とした一揆勢力が再び坂井郡帝釈堂まで進攻しました。翌29日には激戦となりましたが、朝倉氏はこれを撥ね返し、戦場には多くの戦死者がでたといわれています。両者が和睦するのは戦国末期で、今度は織田信長という共通の敵に対するようになります。
○「一向一揆の首塚」(福井市中角町)
福井県立大学の兼定島キャンパス(福井キャンパス)は、かつて、越前の一向一揆が朝倉勢によって壊滅させられた九頭竜川古戦場です。九頭竜川の戦いで、それこそ20万人以上の首が跳ねられ、九頭竜川は血の川になったといいます。中角歩道橋付近に、その悲劇を悼んだ「一向一揆の首塚」あります。
【中角歩道橋】
福井平野を流れる九頭竜川の中流域あたり、天池橋と高屋橋の間に「中角(なかつの)歩道橋」という真新しい橋が架かっています。中角という地名が中津から来ているように、昔からここは九頭竜川の渡しがあった場所です。戦いはまず中角で始まり、加賀能美郡と越前の一揆併せて5万7000が渡河しようとしました。一揆方の河合藤八郎と山崎との一騎打ちなり山崎の勝ち。続いての一騎打ちも朝倉に軍配が上がり、大将が破れたことで川北に退いたといいます。
【中の郷の渡し】
中ノ郷は、石川郡から河合藤左衛門、州崎和泉入道鏡覚ら率いる一揆勢、能登一の宮の大坊主、さらに越前の一揆は和田本覚寺らの勢力が加わり総勢10万8000の大軍となりました。
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