古戦場めぐり「金ヶ崎の戦い(福井県敦賀市)」
◎『金ヶ崎の戦い』
「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」は戦国時代の元亀元年(1570)4月、織田・徳川連合軍は越前の朝倉領に侵攻しましたが、途中浅井氏の裏切りを知り撤退します。金ヶ崎の退き口または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦です。金ヶ崎は、殿軍となった木下藤吉郎、明智光秀、徳川家康などが奮戦した場所です。
元亀元年(1570)1月織田信長は、義昭に『5ヶ条の掟書』を突きつけ、「天下のことは俺に任せろ」と言い放った信長にとって、美濃は三年前に手に入れたし、三河(愛知県西部)の徳川家康とは、その息子・信康に、娘の徳姫を嫁がせて味方につけています。さらに信長は、妹のお市の方を嫁がせて婚姻関係にあった北近江の浅井長政と協力しあい、南近江の六角承禎・義治父子を追って上洛を果たし、畿内から三好勢を追いたてました(信長の上洛戦)。その後の信長にとって目障りな存在は、越前国の朝倉義景でした。朝倉義景は、再三に渡る上洛命令や皇居の修繕命令を無視するなど、信長に対する服従を拒み続けていました。というのも、朝倉氏と織田氏はもともと、このあたり一帯の由緒正しき守護大名・斯波氏の臣下にあった家系です。しかし、朝倉は、その中でも直臣で守護代をも命じられるような名門です。それに比べて、織田氏は、家臣の家臣である陪臣の家柄で、完全に格下なのです。信長の求めに応じて、上洛するということは、織田の風下に立つということ。そんなことは、義景のプライドが許しませんから、当然、その上洛要請を無視し続けることになりますが、信長は信長で、それを許すわけにいかないのも当然。というより、はなから朝倉を潰したい気満々です。
元亀元年(1570)4月20日、信長は滞在していた京都から、3万の軍勢を率いて出発しました。命令に従わない若狭国の武藤友益を討つという名目でした。その後、武藤友益を支援しているのは朝倉氏であるということから、朝倉攻めに向かうことを宣言した信長は、琵琶湖の西岸を北上し若狭国に入ると、粟屋勝久の国吉城に入城、本陣を置きました。さらに越前国の妙顕寺に兵を進めた信長は、4月25、26日の2日間で、越前国への入り口にある朝倉景恒の手筒山城と金ヶ崎城を攻略しました。
緒戦の快勝を受け、木の芽峠を越えて越前へ乱入する、という手はずを整えた信長にもたらされた急報は、同盟者である近江国の浅井長政が突如反旗を翻したというものでした。妹のお市の方を嫁がせて婚姻関係にもあった長政の謀反を、当初信長は信じなかったといいますが、物見から次々と届く情報は、どれも浅井謀反を裏付ける内容でした。また一説には、 夫、長政の裏切りを知ったお市の方が、兄信長に小豆入りの袋の両端をしばったものを陣中見舞いと称して送り、「袋の鼠」になることを気づかせたといわれています。浅井から後方をつかれては、遠征軍である信長勢の大敗は目に見えていることから、信長は、28日京へ向けての退却を開始しました。退却路は、危険な琵琶湖岸沿いではなく、朽木超え(のちの若狭街道・琵琶湖の西側の山道)が選ばれました。この退却に際して信長は、ともに越前攻めに加わっていた同盟者の徳川家康にさえ、何の連絡もしなかったという説があります。それほど危機感を募らせていたということでしょうか。退却戦で最も至難といわれる殿軍(しんがり)は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が名乗り出てつとめました。日頃、木下藤吉郎(豊臣秀吉)を、目端が利くだけのお調子者と蔑んでいた他の部将たちも、このとき藤吉郎を見直したといいます。また、藤吉郎の与力となっていた山内一豊は、手筒山城攻めの際に顔に受けた重い槍傷を省みず、殿軍に加わったことを藤吉郎から賞賛され、出世の糸口をつかみました(1573年の越前攻めの際のエピソード)。信長の逃走途上にいる朽木谷の領主、朽木元綱は、元は浅井方の部将でしたが、信長に随行した松永久秀の説得により味方となったことから、信長は無事通過することができました。信長は丸2日かけて、30日に京都にたどり着きました(金ヶ崎の退き口)。
京都に戻った織田信長は、軍勢を整えるため岐阜に戻りますが、その途上で六角承禎(義賢)の配下、杉谷善住坊に至近距離から狙撃されますが、運良く命中を免れました。2ヶ月後、信長は再び出陣し、姉川の戦で浅井・朝倉勢に勝利します。
○「金ヶ崎城跡」(敦賀市金ヶ崎町)
「金ヶ崎城」は、敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城です。別名敦賀城。治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのために、ここに城を築いたのが最初と伝えられます。戦国時代、朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していました。元亀元年(1570)4月26日、援軍が遅れたため、郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城します。しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退します(金ヶ崎の戦い)。
【天筒山城跡】
天筒山城は、金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城です。金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっています。元亀元年4月25日、織田軍(10万人)に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなりましたが陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになりました。現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残ります。
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