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2016年10月02日06:23

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古戦場めぐり「藤原仲麻呂の乱(福井県敦賀市)」

古戦場めぐり「藤原仲麻呂の乱(福井県敦賀市)」

◎『藤原仲麻呂の乱』
「藤原仲麻呂の乱」(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代の天平宝字8年(764)に起きた叛乱です。恵美押勝の乱ともいいます。孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が、軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件です。
天平宝字2年(758)8月、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)します。淳仁天皇を擁立した藤原仲麻呂は、独自な政治を行うようになり、中男・正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使・平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進しました。仲麻呂自身は太保(右大臣)に任ぜられました。8月25日には、仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられるとともに、仲麻呂は押勝の名を賜与されました。また鋳銭と出挙の権利も与えられ、藤原恵美家には私印を用いることが許されました。
同年、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じます。天平宝字3年(759)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせました。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられますが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わります。
天平宝字4年(760)、仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられます。同年、光明皇太后が崩御しました。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となります。さらに、この年には弟の乙麻呂も失っています。天平宝字5年(761)、淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させ、唐の制度にならって保良宮を「北宮」としました。
天平宝字6年(762)6月、尚蔵・尚侍を務めて仲麻呂と上皇の間のパイプ役になっていた正室の藤原袁比良を、続く7月と9月には仲麻呂の腹心から議政官になった参議・紀飯麻呂と中納言・石川年足を失いました。このため、仲麻呂の政治的基盤が弱体化しました。仲麻呂は1月に息子の真先を氷上塩焼(塩焼王)とともに参議に任じていましたが、12月にさらに2人の息子・訓儒麻呂と朝狩、更に娘婿の藤原弟貞、年足の弟の石川豊成を参議に任じ、同時に白壁王(後の光仁天皇)を、参議を経ずに中納言に抜擢、中臣清麻呂も参議に任じて支持の拡大を図りました。ですが、1年のうちに息子3名と娘婿を参議に任ずる仲麻呂の人事は、さらなる反対派を生むことになります。一方、この頃病になった孝謙上皇は、自分を看病した道鏡を側に置いて寵愛するようになりました。仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせました。これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家して尼になるとともに、天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言しますが、これが実現したかどうかについては不明です。孝謙上皇の道鏡への寵愛はさらに深まり、天平宝字7年(763)には道鏡を少僧都としました。
孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は、天平宝字8年(764)、自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てます。しかし、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど、孝謙上皇に先手を打たれてしまい、仲麻呂は平城京を脱出します。子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図りますが、官軍に阻まれて失敗します。仲麻呂は、近江国高島郡の三尾で最後の抵抗を企てますが、官軍に攻められて敗北します。敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだしてなおも逃れようとしますが、官兵石村石楯に捕らえられて斬首されました。

○「愛発関」(敦賀市疋田)
越前の愛発山に置かれた愛発関(あらちのせき)は、美濃国不破関・伊勢国鈴鹿関と並んで、三関の1つとして最も重視された関です。関は主要な国境に置かれ、浮浪・逃亡という不法な交通を取り締り、治安の維持にあたりました。愛発関がその威力を最も発揮したのが、奈良時代の天平宝字8年(764)9月におきた恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の時です。
淳仁天皇と親密で、当時正一位大師(太政大臣)という最高の地位にあった押勝ですが、天変地異が相次いでおこり社会不安が深まり、さらに孝謙太政天皇と結んだ僧道鏡がしだいに台頭し政権基盤がゆらいでくると、危機感をいだき、ついにクーデターをおこします。そして天皇の権力を象徴する駅鈴・内印を奪おうとしますが失敗し、近江をめざして都を離れました。政府はさっそく、三関を閉じる三関固守という措置を取りました。当時、越前の国守は押勝の息子の辛加知でした。越前はにわかに緊張してきました。 しかし政府軍は再び先回りし、辛加知を殺し愛発関を押さえました。おそらく湖東を走ったのでしょう。そうとは知らずに愛発関に来た押勝軍は行く手を阻まれ、あわてて退却を余儀なくされます。再度体勢を立て直して愛発関をめざしますが、多くの犠牲を出し、さらに近江の三尾崎(高島町明神崎)での戦闘でも敗れます。進退窮まった押勝は船で湖上に逃げますが、結局捕えられ高島町勝野の乙女ヶ池のあたりで、妻子従者ともども斬首されました

○「乙女ヶ池・藤原仲麻呂処刑地」(滋賀県高島市勝野)
この内海は、「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」の戦場となり、敗れた押勝とその一族郎党が捕らえられて処刑された「勝野の鬼江」は、この地と推定されています。乙女ヶ池一帯は、万葉の時代に「香取の海」と呼ばれ、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていました。今は面積8.6ha、平均水深1.6mの内湖となり、フナ、ブラックバスなどが生息しています。

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