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2016年10月01日06:14

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古戦場めぐり「佐和山城の戦い(滋賀県彦根市)」

古戦場めぐり「佐和山城の戦い(滋賀県彦根市)」

◎『佐和山城の戦い』
「佐和山城の戦い」は、慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いで、石田三成を破った徳川軍が、小早川秀秋軍を先鋒として三成の居城だった佐和山城を襲った戦いです。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800でした。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったといいます、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り敵を手引きしたため、同月18日奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てました。家康に従軍した板坂卜斎は、陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと『慶長年中卜斎記』に記しています。

○「佐和山城跡」(彦根市佐和山町・鳥居本町)
佐和山城は石田三成の居城として有名で、「治部少に過ぎたものが二つある。 嶋左近に佐和山の城」といわれています。中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現彦根市)の佐和山(標高232.5m)に存在した山城です。坂田郡および直近の犬上郡のみならず、近江支配の重要拠点であり、16世紀の末には織田信長の腹心丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城としたことでも知られます。慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃しました。なお、佐和山城は彦根城築城の折りに徹底的に破却されたため、山頂部の本の丸一帯はもっと複雑な縄張りであったようです。しかし、今では往時の姿を偲ぶことすらできず、草に埋もれて天守台石垣の一部が寂しく残っているだけです。
【龍潭寺】(彦根市古沢町1104)
龍潭(りょうたん)寺は佐和山の登山口にあり、井伊氏の始祖・藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された臨済宗妙心寺派の寺院です。井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山の山麓に移築しました。近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場でした。三成の肖像画を所有し、境内には三成の坐像、供養塔もあり、まるで三成博物館のようです。

○「清凉寺」(彦根市古沢町1100)
清凉寺は井伊家の菩提寺として、また父井伊直政の墓所として直孝が開基した曹洞宗永平寺派の寺院です。釈迦牟尼如来(しゃかむにょらい)を本尊とし、諸国から高僧を招いたので修行道場としての名声が高まり、多い時には2百余名の雲水が修行をしていたといわれます。本堂裏の高台には、歴代藩主の宝篋印塔があり、寺宝に歴代藩主画像などがあります。
【清凉寺の七不思議伝説】
清凉寺には、佐和山城落城にまつわる「娘に化けるタブの大木」「ひとり鳴る太鼓」などの七不思議伝説が伝わっています。寺地が石田三成の名家老といわれた島左近の屋敷跡で、島左近邸の時からのタブの老木も残っています。この寺院は関ケ原の戦いの戦没者の供養も兼ねています。

○「仙琳寺の石田地蔵」(彦根市古沢町946)
彦根市内の寺院には、佐和山城の遺構や三成ゆかりの品がいくつも伝わります。佐和山の山裾に沿って進むと、道の右側に立つ小屋に仙琳(せんりん)寺と書かれた小さな張り紙があります。仙琳寺の「石田地蔵」は、石田家を慕う領民が隠し持った石像といわれています。この仙琳寺は、彦根藩四代藩主井伊直興(なおおき1656〜1717)の庶子本空(ほんくう)を開基とする天台宗の寺院で、幕末まで井伊家の外護は厚かったといいます。中でも、井伊直弼と二世慈空とは茶を通じてかなり深い関係にありました。井伊家の命令で集められた十数体の石地蔵が、山門脇の雑木林に並ぶとありますが確認できず。この寺は三成の茶室があった場所で、本堂裏の竹薮には、三成が茶の湯のために水を汲んだといわれる井戸が今も枯れずに残っているとされますが、これも見つかりませんでした。

○「妙源寺」(彦根市河原3-4)
花しょうぶ通りに近い妙源寺の山門は、佐和山城の城門の一つだといいます。

○「宗安寺」(彦根市本町2-3)
京橋通りにある宗安寺の「赤門」は佐和山城の大手門だったといわれ、「千体仏」は三成の念持仏だといいます。また、大坂夏の陣で戦死した豊臣家の忠臣として名高い木村長門守重成を偲んで、重成忌が行われます。井伊道政の正室・東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪に建立された安国寺は、佐和山(232.5m)山麓へ移され、宗安寺と改名、その後彦根城築城のさい現在の地へ再度移転されました。元禄の大火で、「赤門」と呼ばれる朱塗りの佐和山城大手門を移築した表門が唯一焼け残り、現在の本堂は江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏と思われる仏像を持ち帰ったもので、鎌倉時代の作といわれています。その他、墓所には木村重成の首塚、唐人門、鐘楼、白砂に巨石を配した庭園があります。さらに、徳川の将軍が替わるごとに祝賀のため朝鮮国から来朝した朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所であり、朝鮮王像が残されています。

○「蓮成寺」(彦根市栄町1-5)
蓮成寺には、石田三成の念持仏と云われる鬼子母神像があり、佐和山城の法華丸にあった寺を移した物ともいわれています。

○「彦根城」(彦根市金亀町)
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城しました。三成は領地にて善政を敷き、領民からも大変慕われていたため、直政はその威光を払拭するべく、新たに彦根城築城を計画しました。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させています。佐和山城は慶長11年(1606)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない廃城となりました。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622)のことでした。

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