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2016年09月29日06:12

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古戦場めぐり「賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)」

古戦場めぐり「賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)」

◎『賤ヶ岳の戦い』
「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」は、天正11年(1583)4月、近江国伊香郡(現滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田家最古参の重臣柴田勝家との戦いです。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって、亡き織田信長が築き上げた権力と体制の正統な継承者となることを決定づけました。
天正10年(1582)、天下統一を進めていた織田信長は明智光秀が起こした本能寺の変で、その生涯を閉じました。信長の訃報を知り、すぐに駆け付け山崎の合戦で光秀を討ったのは、織田家の筆頭家老の柴田勝家ではなく、羽柴秀吉でした。そして、信長の後継者問題が持ち上がります。信長の三男・信孝を推す勝家に対して、信長の長男・信忠の長男でわずか3歳の三法師丸を跡目につけ、リーダーシップを握りはじめる秀吉。必然と対立していく二人は、ついに「賤ヶ岳合戦」へと発展していきます。
天正11年(1583)4月、柴田勝家は北の庄城から木ノ芽峠を敦賀に出て、刀根越えで柳ヶ瀬に入ります。そして内中尾山に本陣(玄蕃尾城)を築き、行市山から林谷山への尾根に砦を築きました。秀吉は余呉湖を囲む形に砦を配置し、木ノ本・田上山に本陣を置きました。互いのにらみ合いが続き、動き出したのは岐阜にいた信孝で、これを討つために秀吉が岐阜に向かいました。このすきに勝家の甥・佐久間盛政は、大岩山・岩崎山を陥落させます。盛政は「大岩山陥落後は直ちに陣地へ退く」という勝家のいいつけを聞かず、さらに敵の懐深く、賤ヶ岳へと進んでしまいます。岐阜の秀吉が戻るには時間がかかるとよんでいた盛政でしたが、秀吉はすぐに引き返し、油断している盛政に総攻撃をかけます。世にいう「秀吉の大返し」です。この勢いに勝家軍は壊滅してしまいました。勝家の本陣にまで秀吉軍が進めます。ここにいたのは、勝家の身代わりとなった毛受勝助でした。その隙に、勝家は北の庄へと帰城しました。しかし、すでに勝家軍は壊滅しており、追ってきた秀吉の追撃に破れます。勝家は、妻のお市の方とともに自害して果てるのです。こうして、信長に次いで天下の覇者となる道は秀吉の前に開けました。
【美濃大返し】
「美濃大返し」は、賤ヶ岳の戦いの際に羽柴秀吉が美濃国大垣(岐阜県大垣市)から近江国木之本(滋賀県長浜市木之本町)までの13里(約52km)の道のりを、5時間でかけぬけた大掛かりな軍団移動のことをいいます。
【賤ヶ岳の七本槍】
秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は、後世に「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれます。後年、七本槍は豊臣政権において大きな勢力を持つに至りましたが、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が、自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえます。
その7人とは、福島正則(1561年 - 1624年)、加藤清正(1562年 - 1611年)、加藤嘉明(1563年 - 1631年)、脇坂安治(1554年 - 1626年)、平野長泰(1559年 - 1628年)、糟屋武則(1562年 - 1607年)、片桐且元(1556年 - 1615年)です。

○「賤ヶ岳山」(長浜市)
賤ヶ岳山は、滋賀県北部、琵琶湖北岸の長浜市にある山。標高421 m。眺望の優れた場所で余呉湖畔はもちろん、合戦の跡も一望することができます。山頂のまわりには、未だ土塁跡が残っていて、南側には伝令道が走っています。山頂に、明治11年に建てられた賤ヶ岳戦趾碑もあります。

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