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2016年09月28日06:16

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古戦場めぐり「小谷城の戦い(滋賀県長浜市)」

古戦場めぐり「小谷城の戦い(滋賀県長浜市)」

◎『小谷城の戦い』
「小谷(おだに)城の戦い」は、天正元年(1573)8月8日から9月1日まで、織田信長と浅井長政との間で行なわれた戦国時代の戦いです。
1570年の姉川の合戦に勝利した織田信長は、着々と浅井・朝倉両氏の攻略をすすめていました。合戦勝利後、すぐに小谷城南にある横山城に羽柴秀吉を城代において牽制し、浅井の切り崩しにかかりました。一時期、浅井・朝倉連合軍にかなりの反撃を受けたこともありましたが、 翌1571年には、比叡山を焼き討ちにして、さらに浅井氏を圧迫し、小谷城包囲を着々とすすめていました。信長の近江侵略は、ある程度順調に進んでいたものの、とうとう甲斐虎、武田信玄が三河・遠江・東美濃へと、1572年に侵攻しました。当時、破竹の勢いで勢力を拡大していた織田信長に唯一匹敵する勢力で、京を制圧していた信長が若干優位ではありましたが、勢力はほぼ拮抗していたと思われます。信玄の侵攻に呼応して、浅井・朝倉も兵を進めたものの、途中朝倉は戦線離脱します。織田・武田の直接対決になるかと思われましたが、信玄が駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で病死します。1573年4月、兵を甲斐へと引き上げてしまいました。
信長は浅井・朝倉の追討準備にかかり、また信玄の脅威がなくなったことにより、調略もスムーズに進みました。 そして、とうとう小谷城に西に位置する阿閉貞征(あつじさだゆき)が城主である山本山城が織田方へと鞍替えしてしまい、小谷城はほぼ織田勢力に包囲されることとなりました。小谷城の救援のため、朝倉義景が2万の兵を率いて、木之元あたりか大獄砦付近に陣取ったものの、織田軍に急襲され撤退します。織田にとって、この時期の浅井はたいした存在でなく、滅亡はすでに時間の問題でした。
7月には、将軍足利義昭を京より追放します。織田氏が確実に勢力を拡大していき、阿閉貞征の山本山城が織田方に寝返ってくると、3万の軍勢を率いて小谷城を取り囲みました。義景は、織田軍の小谷城へ向けた出陣を知ると、全軍に出撃命令を出しました。ところが朝倉景鏡や魚住景固はこの命令を拒否し、すでに内応が出来ていたのでしょう。義景は総大将として、出撃していくことになります。
8月10日、山田村に織田信長は布陣し、朝倉と浅井長政立て篭もる小谷城を分断しました。朝倉軍は、大獄砦の北方(山田村の北西付近)、田上山付近に陣取っていたといわれています。織田の大軍に驚いてしまったのか、8月12日に焼尾砦を守っていた浅見対馬守が降伏します。この降伏を機に、織田軍は豊原寺西方院ら数百の兵が守る大獄(おおづく)砦に猛攻撃を加え、陥落させてしまいます。この大獄砦の陥落により、小谷城救援は困難な状況となり、朝倉軍は撤退か一矢報いるか軍議が分かれるものの、13日に義景は撤退を指示します。ひとまず、敦賀へ向かおうとしました。この動きを察知した織田軍は、追撃を開始します。朝倉軍は、織田軍が追ってくるとは思っていなかったのか、追撃してくる織田軍にビックリしてしまい、ほうほうの体で逃げ出すものの、近江と若狭の国境付近の刀禰坂で、織田軍に捕捉されてしまいます。ここで踏みとどまって、義景を逃がそうとするものの、組織だった行動が出来なかったためか、一部奮闘する者はいましたが壊滅し、多くの朝倉家の重臣が討ち取られ、以前美濃の当主であった斎藤竜興もここで命を落とします。疋田城(敦賀市疋田)まで撤退できたものがいたものの、篭城準備も整っていない状況だったためか、14日の織田軍の攻撃で落城します。朝倉軍壊滅の報は、すぐに越前中を駆け巡ったのか、朝倉につくか織田につくか、迷っていた多くの越前の豪族が織田信長に恭順し、18日には悠々と織田信長は府中(現武生市)に到着しました。先遣隊はそれより先に、北ノ庄あたりまで来ていました。また16日には朝倉を見限った平泉寺の門徒によって、一乗谷を丸焼きにされています。
織田軍は、残る朝倉勢力、大野地方は攻め入っていませんが、この地方を管轄していた朝倉景鏡が、逃げてきた義景の討ち取り(20日)、信長に義景の首級を持参します。ここで、朝倉氏の越前統治は幕を閉じます。
予想以上に、あっけなく朝倉を攻め滅ぼした織田軍は、28日に小谷城の南、虎御前山に布陣します。援軍の望みがなくなり、もう落城は時間の問題となった小谷城でしたが、浅井長政は降伏しませんでした。すでに大獄砦は、織田の手に落ちていたものの、山王丸、京極丸、本丸と小谷山頂に連なる小谷城は堅城でした。抵抗激しく若干攻めあぐねるものの、羽柴秀吉が清水谷から一気に京極丸へ攻め上り、激しい攻撃のためか、守っていた浅井井規(いのり)、三田村国定、大野木秀俊が降伏し、陥落しました。これにより、小丸を守っていた父浅井久政と本丸の長政は分断されてしまいました。そして、京極丸より夜通し小丸を攻撃し、浅井久政は力尽きて自害します。28日に信長自身が京極丸へ入り、指揮します。9月1日頃に、信長は長政篭る本丸へ総攻撃を開始します。長政はもはやこれまでと、200ほどの兵を引き連れ敵中に突入、しばらくすると切腹する場所を求め、近くの赤尾屋敷へと行き自害します。 浅井一族は、ここに滅亡しました。

○「小谷城」(長浜市湖北町)
「小谷城」は、日本五大山城の一つに数えられます。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城です。戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られましたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間、織田信長に攻められ落城しました。その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となりました。現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っています。

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