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2016年09月27日06:02

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古戦場めぐり「姉川の戦い(滋賀県長浜市)」

古戦場めぐり「姉川の戦い(滋賀県長浜市)」

◎『姉川の戦い』
元亀元年(1570)6月、織田信長は朝倉義景を討つために兵をあげました。朝倉氏と浅井氏は、強い同盟関係にあったため、織田信長が朝倉氏を攻めれば浅井氏も動きます。しかし織田信長は、それはないとタカをくくっていました。なぜなら、信長の妹・お市は浅井長政の妻となっており、観音寺城の戦いでも織田信長と浅井長政は共に戦っています。しかし、信長は手筒山城(てづつやま)を攻め落とし、金ヶ崎城(かねがさき)を降伏させ、いよいよ朝倉の本拠地を攻めようかという時、浅井長政が朝倉氏の加勢についてしまいます。浅井長政にとっては、織田信長との縁戚関係よりも朝倉義景との主従関係のほうが強かったのでしょう。
一転危機におちいった信長、ここは退却しかないと決断をくだすのですが、進軍よりもむしろ退却の方が難しいともいわれています。しかし、その退却の最後部を努めたのが豊臣秀吉でした。秀吉は、参戦していた徳川家康と協力し見事追っ手を撃退し、上手く逃げ切ることに成功するのですが、しかし織田信長は、浅井の野郎、許さん!と怒りを爆発させるのでした。
軍を整えなおした信長は、報復戦にうってでます。とはいえ、浅井長政の城である小谷城は、難攻不落といわれる城で、いかにしてこの城を攻略するか? 信長の出した答えは、城攻めではなく、城から引きずりだして野戦で勝負という考えです。しかし、そんな簡単に浅井の軍は、城から出てくるものでしょうか?
結論からいうと出てきました。信長は、横山城という城を包囲します。この城は、近江を南と北を結ぶ重要な場所で、ここを信長に抑えられると浅井氏の勢力は分断されてしまいます。この横山城を見捨てることのできない浅井の軍は、横山城の付近を流れる姉川に兵を出してきたのです。
浅井の軍は5000〜8000、これに朝倉の軍8000〜10000が加わり13000〜18000の兵。対する織田軍は20000〜23000。援軍の徳川軍が5000〜6000。この兵が姉川を挟んで、織田VS浅井、徳川VS朝倉でにらみ合う形になりました。徳川軍は5000〜6000の兵、対する朝倉軍は8000〜10000。兵の数では不利な徳川軍でしたが、朝倉軍は総大将朝倉義景が出陣してこなかったこともあり、徳川軍有利に進みます。しかも、徳川には大久保忠世、本多忠勝、榊原康政らといった屈強な武士がそろっています。一方、織田信長の軍は約2万の兵(内5000は、横山城の包囲に回っていたので実質15000)、浅井の軍は5000〜8000と余裕で織田軍の勝利かと思われましたが、自分たちの城を取り返すという意気込みです。織田の軍は13段の構えをとっていましたが、11段まで崩され、一時は姉川から1キロも退却。しかしその時、少ない兵で朝倉を勝利目前まで追い込んでいた徳川の軍1000ほどが援軍に来ます。彼らは浅井軍の右翼に突入し、さらに横山城の包囲についていた兵も信長のピンチを聞きつけ左翼に突入します。
この激戦は9時間続き、姉川は血で赤く染まっていたといいます。徳川家康に助けられる形で姉川の戦いに勝利した織田信長。その後は、横山城を完全に攻め落とし、秀吉を城主とします。小谷城も勝利の勢いにのって攻め落とすことも考えたと思われますが(実際、敗走する兵を追って小谷城50里ほどまで攻めています)、織田の軍の被害も少なくはなく、一気に攻め落とすことは得策ではないと判断したようです。
なお「姉川の戦い」という呼称は、元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んでいます。信長はこの戦いで勝利して、今後、天下人として歩むことになります。

○「姉川の古戦場」(長浜市野村町・姉川河原)
姉川の戦いの行われたのは、国道362号線が姉川を渡る野村橋の一帯とされ、現在では川幅は200mほどあります。当時は堤防などもなく、おそらく渺々たる河原が広がっていたのではないかと想像されます。野村橋の背後の山は大依山で、浅井・朝倉軍は小谷城を出て、一時この大依山に陣を構えたといいます。大依山には陣城らしき遺構が何カ所かに残っています。

○「横山城跡」(長浜市堀部町・石田町)
横山城は姉川古戦場の南東方向、長浜市と米原市の境界をなす横山丘陵(一名臥竜山)の最高所(標高312m)を中心に、三方の尾根にY字状に遺構が配置されています。石田地区にある日吉神社に登城道があり、20〜30分程度で頂上まで辿り着けます。遺構も良好に残り、頂上からの眺望も素晴らしいところです。
現地案内板によれば、主な施設は四十ヶ所以上の曲輪からなり、いたるところに土塁・堀切・竪堀などの防御施設が設けられており、その機能は堅固で典型的な戦闘用の山城であったといえます。この城は、当初京極氏の支城として築かれたといわれ、その後、六角氏と浅井氏との対立激化にともないそれぞれの前進基地として争奪が行なわれ、浅井氏の勢力が拡大したことにより浅井氏の南進基地として役割を果たしました。この城が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570)の姉川合戦(別名・野村合戦)とそれ以後の織田氏・浅井氏の攻防においてです。ここ港北の地(湖北地方)は、古くから北国や東国から京都に通じる交通の要衝の地に当たり、全国平定を目指す織田信長にとっては、その押さえとして姻戚関係を結んでいた浅井氏の謀反は大きな脅威でした。また、前方に延暦寺・石山本願寺、背後に武田勢、南に長嶋の一向一揆さらに北には浅井氏と手を結んでいた朝倉氏と、信長・秀吉主従にとってこの時期は多難な状況にありました。姉川合戦により浅井氏から奪った横山城を預かった秀吉は、その後何度かの浅井氏の攻撃にもかかわらず、浅井氏滅亡の天正元年(1573)までの約三年間守り通し、浅井・朝倉氏を牽制することにより信長の背後を守りました。信長自身も本願寺攻め・小谷攻めに際して何度も本拠地として利用するなど、重要な役割を果たしています。また、この城は秀吉にとってその後の江北を領有する直接の足がかりとして、さらに全国平定の基礎を築いた城としても長浜城に劣らぬ重要な歴史的価値をもっています。

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